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生まれる前~幼少期

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のあです。


これから記憶を頼りに自分の過去話を少しずつ書いていきます。

よろしくお願いします。

詳細をぼかしている部分も少しだけありますが、わりと何でもぶちまけるつもりです。
他人の人生を覗き見てみたい方、素人駄文で暇潰しをしたいという奇特な方はお付き合い下さい。

まずは私が生まれる前、両親の簡単な背景から。




実の親のこと


母は若かりし頃、OLなりバーの雇われ店長なりと、色々な事をやっていた陽キャの音楽好きガール。
友人知人が多く、何でもやってみようの精神で生きていたという。

超美人ではないが、角度によっては結構な美人に見える。
昔から現在に至るまで、すっぴんまたは薄化粧がデフォルトなのがすごい。
本当に老けにくく、ずっと実年齢より15歳くらいは若く見えている。
顔立ちもあるが、スキンケア用品と日焼け止め以外に顔に何かを塗るという習慣がないから若々しく見えるのだろうか。


対して、田舎育ちで上京後アルバイトをしながら画家となった父は、年上彼氏。
11歳差でのちにゴールインするのだが、父曰く、「お母さんを狙っていた男はいっぱいいたけど、会社勤めでもない俺が一番時間を共に出来たから勝てたんだろうなあ…」だそう。
とても口下手だが、非常に優しい男であり、おまけに絵の腕も(昔は)素晴らしかった。
途中で画家は辞めてしまったし売れずじまいだったが。

思うに、私の父は、母以上に頭が良くなかった。
お世辞にも勉強が出来るタイプとは言えないし、勉強以外の面でも地頭が全く良くはない。
物事を考えるのが壊滅的にかなり苦手。
ハッキリ言って、見た目も中身も冴えない男だ。

そして昔から音を立ててご飯を食べるのと、食後につまようじ無しで歯を舌で掃除、シィーッ!と音を立てるのが特徴で、一時期は私も気持ち悪くてイライラした。
食事中の音に関してはクチャラーではないのだが、無駄にスゥーッと大きく音を立てるし、物を啜る事などが多かった気がする。
お茶でもコーヒーでも味噌汁でも何でも啜る。
モグモグ音以外でもストレスが溜まる事あるんだ…

そんな父の口癖は、「俺は田舎モンだから…」。
さらに、農家の長男坊であったが若い頃逃げるように上京し、歳の離れた弟に全てを放ってしまうような一面もあった。
安定して食っていける可能性も低い険しい道を選び、一家を放って都会へ逃げてしまったのだから、大昔の田舎のコミュニティでは特に異例で、今でも親兄弟には頭が上がらないという。

家の事は本当に全て弟に任せたので、老後の今も実家は"親戚の家"のような感覚であるらしい。
どうにか勘当まではされず、和解はとっくの昔に済んでいるとの事だが…
現在の父は70歳くらいの筈だし、農家の長男で自分の好きに生きられない時代と地域に生きていた頃の葛藤は、一応ちょっと想像できる。
実家を訪れる度に気まずいのは自業自得だと思うが。


ロマンチックで突っ走る癖に根は小心者で心配性な父と、好奇心旺盛でとにかく明るい母。
一見すると対照的にも見える2人だが、話を聞くと最初は良い夫婦だったようだ。


母は昔「パンクス」だった時期もあったそうで、何かと仲間は多かった。
曰く、周りがみな聖子ちゃんカットの中ひとりだけショートカットを貫いたり、洋画を観漁ったり、激しい音楽を好んだりしていたが、逆に孤立はせず、人が周りに多く集まるような女性だったらしい。

個性的ながらある意味キラキラしていて、社交的で、友達からも好かれる。
…そんな感じで良い面ばかりと思いきや、母はたまにヒステリックかつ、結構なアホだった。
非常にドジが多く、頭は良くはなく固定概念に囚われがちで、今で言うネットワークビジネスに掴まった時期も少しあった。

ネットワークビジネスにしろ後に目覚める健康・ナチュラル志向にしろ、趣味にしろ、家族に色々と押し付けるように勧めまくるのは、正直ちょっとダルい一面だった。
私は一人娘だが、母の好きな何らかに影響を受けたり洗脳されたりせず育つ事ができて良かったと思っている。
クソまずい子供用サプリとか飲ませられた時期もあったのだけど…

しかし母は、親(私にとってのおじいちゃんおばあちゃん)の教えのお陰か、どうにか根っこの部分はしっかりしていた為、生活力はあった。
そのうち怪しい事はスッパリと辞めたり、仕事をいくつか掛け持って頑張っていた。

私は物心ついてからずっと貧乏暮らしだったものの、母側の家系はその昔立派なお家柄だったようだ。
思考回路が単純で、自身が知っている部分のちっちゃな話を何度も他者へ言い聞かせる癖が付いていた母は、昔から恥ずかしげもなく得意気に「おじいちゃんのお家は大昔にお城を持っていたんだから!!」と、私にも周りにも何度か話していた。

果たして何代前、何時代の話かは知らない。
というか本当かどうか知る術もない。
なんなら興味もわかなかった。
何故なら自分達の代にはとっくに落ちぶれていた訳で、昔立派な家だったとかは本当にどうでもいい話に思えたから。


はっきり言ってしまうと頭が良くない者同士の二人がパッションで結婚し、それから楽しく生活をし、しばらく経って母は懐妊。
その子どもがおバカでちょっと出来が悪いのは、ここまで文章を打っている本人もなんとなく納得。

母と父の特徴をほぼ全て受け継いでいるような人間が私だからだ。

ただ、私は無事健康に生まれたし、人生の中では激しく精神をゆさぶられるような出来事もいくつかあったけれど、ここまで大きな病気も無く辿り着いたし、両親にはある程度感謝している。

しかし私は、幼少期から壊滅的に物覚えが悪かった。

10代の頃から既に記憶力がひどく悪いし、感情の起伏も激しい方だったと思う。
自分の頭には何かしらの症状名がつくのではないか?と疑いながら、何だかんだ脳神経外科もメンクリも足を運ばずに32歳まで生きてきた。

常に頭の半分にモヤがかかっているような感覚がずっとある。

どうでもいい時は冴えている瞬間もある。
しかし、ここぞという時の計算は全く出来ない。
頭が働かず、考えたいのに考えてくれない。
脳の半分がロックされているような感覚。

こうして自宅で物事をゆっくりと考えたり、一人で過去を振り返ったりするのはいいのだが、瞬時に何かを考える事が本当に本当に苦手だ。
生きづらさは毎日感じているけれど、その辛さにももう慣れてしまった。


話が少し脱線してしまった。
とにかく私は、性格が異なる歳の差夫婦の家庭に生を受ける。
以前流産があったりして母は心配していたようだったが、この時は順調に臨月を迎え、わりと安産で誕生したそう。

お産が終わる頃の深夜帯、病院までひどく慌てて駆け付けた父は、入り口のガラスのドアすら目視できず、思いっ切り正面から突っ込んで顔をぶつけたらしい。(マンガか?)

赤ちゃん時代に住んでいた場所や生まれた土地については詳しく知らないし、覚えていない。
流石に親に訊ねた事はあった気がするが、もう土地名すら忘れてしまった。
…古びたアパート内で、食卓の黄ばんだ照明の下に出されたしいたけのお味噌汁が怖かったという謎の記憶だけは何故かある。
そう、なぜかソレが怖かった。

部屋の古いライトで黄色く照らされたしいたけ、皮が剥かれていない人参など荒々しくざく切りの野菜が詰まったお味噌汁。
幼女の頃の私はそれが美味しく感じずひたすらにイヤな光景だった。
という、感覚と光景が脳裏をふと過ぎった。今。
(ていうか大人になった今は野菜も具沢山味噌汁も好きなんだけど、子どもに与える物は多少は小さく切れよって思う…)
変なシーンだが、それが一番古い記憶かもしれない。


私は大人になってから母に似ているとよく言われるようになったが、元々は違った。

小さい頃の容姿は父に似ている部分が多く、一言で言えば、全く可愛くなかった。


父ゆずりで地黒だし、そうでなくても日焼けをしやすい子で、小さい頃は特に浅黒い肌をしていた。
体型もデブ程じゃないがパーツがどれもかなりむっちりしていて、周りの女子からはだいぶ浮いて見えた。
やけに浅黒く、野暮ったい身体の女の子。

すごく細くて可愛い近所の子がお下がりの洋服をくれた事があるが、スカートもキャミソールもあまりにサイズが違って、どう頑張ってもキツくてダメだった。
その中からどうにか着られたわずかな服も、あまりにデザインが可愛過ぎて当時の私には一切似合わず、近所の男の子達に大笑いされたという最悪の思い出がある。

この頃の目は左だけたまに奥二重になっていたが、右は常時一重まぶただった。

片目だけ若干二重のアンバランスな顔で嫌だったし、片目が二重じゃない時も両目腫れぼったい一重だったので、どのみち可愛くない。
鼻口顎といった他のパーツも特別整っているわけじゃない。
高校生の終わり頃ようやくメイクを覚えるまでは、ずっと垢抜けない黒豚でしかなかった。

のちに大変化を遂げるまで時間を要したし、小さい頃の写真は本当にびっくりするくらいブス過ぎて、自分では一切昔の写真を残していない。
父によく似ているし、幼少期バフがかかっているにも関わらず可愛くない。
加えて家庭が貧乏だったのでオシャレも全くできず、同年代の他の子達と比べても信じられないくらいダサくて、昔の写真を見ているとなんだか気分が悪くなってしまう。
(自分ではどんどんアップデートを重ねられるのがプラスすぎて今が最強と思っていて、大昔の姿なんかまず残したくないという気持ちである…)

とはいえ、流石に親は今もアルバムを何冊か残しているし、子の成長を残したいという気持ちは全然理解できるので、自分の目の届かない範囲ならまぁ…という気持ちでそれらは放っておいている。
親の死後は、恐らく私も老いた後だし今後誰かに見られる事を考えてコッソリ捨てると思うけども。


親は否定したが、私はずっと自分をブスでずんぐりむっくりな子どもだと思っていたし、少なくとも周りの視線はそう物語っていた。


幼少期は、ブスガキは日陰で生きるのがお似合いなんだなあと少しずつ悟っていった時期でもある。

実際この頃はかなりの地味ブスだったのに、特に深くは考えず親補正だけで「のあはかわいいよ!!」とただ只管に繰り返してくるだけの母がしんどかったのを覚えている。
母はある程度美人顔だし、娘への愛から来るものだったとしても、その言葉が無責任に思えて。

それに正直なところ、その言葉が出せるのは優しさからだけでなく、センスの無さもあると思う。
そもそも母が推す女子の顔というものは、どれもかなり地味で芋系の子ばかりだったし、そんな中で可愛いと言われても……という複雑な気持ちもあり。
ひねくれてごめんだけど。

ついでに思い出したが、母は昔から色黒に悩む私に対し、大きくなったら勝手に白くなるよ!と適当に励ましてくれていた。
しかし案の定、成長しても勝手に白くなるという事はなく、地黒なのでどんなに日焼け対策をしても元の肌のトーンが真っ白くはならず、絶望したっけ。笑
無根拠な励ましは時に無責任。
ただ、まあ、雪のように白い肌でいる必要性は無いのだと気付けてからは生きやすくなったかな。

コンプレックスを乗り越えるまで長い年月がかかったが、小さい頃に私の色黒をバカにしてきた奴らの声に耳を傾ける必要は無かった。



小学生の頃からメソメソ


5歳頃からは、両親と3人でさらに小さいアパートに越した気がする。
恐らく生活が苦しくなってきたので狭い場所へ移ったのだと思うのだが、入学予定の小学校のすぐ近くだったので、折角ならと小学校近くのアパートを選んだのかもしれない。

なお、保育園だか幼稚園だかの記憶は全く無い。
本当に何一つ覚えていない。

そんなこんなで小学校に入学し、初登校日、聡明ではない子どもがポツンと投げ出され、ご近所とはいえどよくわからない道を一人で歩かされる事となった。
人生初めての登校に、どうしたらいいか不安でいっぱいだった気がする……
お母さんが遠くから心配そうに見守っていた記憶がうっすらとある。
付き添ってはくれなかったけど心配はされていた。

あっという間に学校生活が始まった。
小学生の間に自分の集団生活での立ち位置を理解したり、自分がいかに出来が悪いかをなんとなく解って悲しくなったりもした。

小学生時代のうち二度も教室内でお漏らしをするという恥ずかしさの極みも体験している。
うち一つはうんこだし。
終わってるだろ………と思いきや、意外と終わらなかったし精神崩壊もしなかった。
なんでだ。まじで。
(女子だったから流石に可哀想だと周りから庇って貰えたんだっけか…?)

物覚えが悪い所為で、日本地図と九九は本当に覚えるのに苦戦してイヤだった。
しかし父の影響で幼い頃から漫画が大好きだった為、漢字学習だけは若干得意だった。
台詞に読み仮名がある少年誌をよく読んでいたので、そのお陰で漢字もスラスラと覚えられていた。
漢字テストで一人だけ満点をとった時があって、茶化しじゃないイヤミのない言い方で「よっ、漢字博士!」ともてはやされた瞬間は、ほんのちょっとだけ嬉しかった。


そして、当時住んでいたアパートには、同じ小学校に通う同級生の子が一人だけいた。
ぽっちゃりしたやけに髪の長い女の子。
自分から特に仲良くなるという事はなかったのだが、相手に友達がいなかったので一方的に付きまとわれた時期がある。

霊感キャラにハマっていた彼女により、「のあちゃんのみらいがみえます。のあちゃんは明日の昼12時にしにます」といきなり謎予言をされたのも、なかなかに怖かった出来事である……。

こちらからしたら一切友達とは思っていない同級生の一人だったが、当時の私はこの予言が本当に怖かった。
明日のお昼の12時って学校だ…最期におとうさんおかあさんにも会えないんだ……と、泣いた。
当然、予定の時刻には何も起きなかった訳だが、たいへん幼稚で悪質である。

彼女はクラスだけ違ったが、同じ小学校に通い、同じアパートの別室に住んでいたので毎日のように顔を合わせるし、私にとっての最初の地獄がこの日々だったのかもしれない。
狭いアパートだったが、彼女は四児のヤンママが暮らすお部屋の長女で、のちに成長してからもフカシが多く、中高でも孤立して不登校からのメンヘラヤンキー女になったと噂で聞いた。

もし本当に霊感があったとしたら悪いのだが、少なくとも私の目には、嘘つきで人の気を引きたいだけの肥満の少女にしか見えなかった。
そりゃ心も成長してなきゃ嫌われもするよ。


小学校時代、今思い返しても男女共に意地悪な奴が多かった。

いい思い出は全くと言っていいほど無い。


しかしこれは、私がメソメソした陰キャブスだったからなのだろうか?
誰かにとっての悪人は誰かにとっての善人だ。
もしかしたらそんなにイヤな奴は居なかったのかもしれないが、少なくとも私に普段から良く接してくれる子達はあまり居なかった。
特に男子からはイジられ蔑まれてきたしなぁ。

体育の授業で、クラスの中心的キラキラ男子にサッカーボールをかなり遠くまで思いっきり蹴られ、おい取ってこいブタ!と無邪気に言われる事もあった。
ドロケイかなんかの外遊びに誘われて参加したら、この役たたず!と私だけ強く言われて、悲しい思いをして泣いた記憶もある。
周りから見てもそうだし、自分でもブスで暗くて役立たずだったのはよく解った…。
子ども時代のささいな出来事ばかりとはいえ、どれも思い返すと傷付く。


小学1年生の終わりに、父と母の関係も終わった。

何か大きな事件があった訳ではないらしい。
しかし、画家くずれの父と一緒の生活が苦しかったであろう事は容易く想像できる。

「おとうさんとおかあさん、どっちについて行きたい?」と、ある日唐突に訊ねられた事だけはよく覚えている。

私は考える事がこの頃から非常に苦手だったため、大して考えもせずに、その場でなんとなく母を選んだ。
とはいえ、父と一緒になっても頼り甲斐なくて大変そうだし、母がいない暮らしの方が変な感じがするなーと、うすぼんやり想像する事くらいは出来ていたのだと思う。
だから母にした。

結果だけ考えると、後に海外へ行けたり苦労せず学校に通えるようになったりしたので、これがベストだったんだけど、その生活に至るまでは嫌な事が多かったな。
ってまあ、全然頼もしくない年老いた父と2人で非常にボロい生活を送るよりかはマシだったと思うけど。
今思えば人生の分岐点の一つだ。

「おかあさんが私を産んだから、おかあさんについて行く。」と答えたのはよく覚えている。
全然深い事は言っていない。
表面上でしか考えられずに発した言葉だ。
なんか自分でもよくわかんないけど、そう思って口にしただけの事だった。


かくして私が小学2年生に上がるタイミングで突如両親は離婚し、私は母と2人で更にボロいアパートへ引っ越す事となった。

生きていて、どんどん住処が小さく汚く変わっていくのは不思議だった。
普通、親の出世とか生活の変化とかでより良い住まいに変わっていくモンじゃないんですかね…。知らんけど。

父もそのうち引っ越したが、私と会いやすいようにしてくれたのか、同じ街のボロアパートに越した。

距離がそう遠くないのでとても遊びに行きやすく、今にして思えば週末私が父宅へお泊まりに行っていた間に、母も仕事やプライベートや再婚活の時間を作れていたのかもしれない。

そしてなんと、驚く事に今現在も父は同じアパートに住み続けている。
軽く20年以上は同じ場所にいる。
仕事もずっと同じ。
小心者で環境を変えられないだけなのは解るが、それでもわりとすごい。
まるで離婚後から時間が全く進んでいないようだ。

ずっと女っ気は無く、再婚は一度もしていない。
何故か小さい頃から予想していた通りだった。
まあ、ロマンスから程遠い人ではある。
昔から哀愁は漂っていた。



シングルマザーとの生活


小2の頃、なんかのタイミングで担任の先生から、
「今日からのあちゃんは、(母の旧姓)のあちゃんです。よろしくお願いします。」
とクラスでアナウンスされ、親の離婚を経験した事が無い周りのクソガキ達は、なんで?苗字ちがうのなんで?としつこく訊いてきた。
ガキって言ってもクラスメイトだったけど。笑

実はこれも結構しんどい思い出の一つだ。
しかも新しい苗字はわりと変わった名前だった為、長い間それをイジられ続ける事となる。

私は辛かった。

離婚後の父との交流は、ほぼ毎週末遊んだりお泊まりしたりと結構長めに続いたが、父のアパートの目の前に建っている一軒家の娘がしつこく私の苗字をバカにしてくる女子だったことが判ってからというものの、そのブスが家の前で遊んでいないかキョロキョロ確認してから父の家を出入りするのが癖になってしまった。

週末おとうさんちに遊びに行くにあたって一番嫌だったのがゴキブリとの遭遇、そして二番目は、このいじめっ子の女と鉢合わせるかもしれないという恐怖感だった。
まあ、正直なところ母が行けというからほぼ毎週末通っていたけど、父宅で過ごしても特に楽しい事は無かった。
朝から夜までずっとマンガを読んでいた気がするし、途中から父も私を家に置いて外出していたりした。
漫画は面白かったけど、ぶっちゃけ何の時間やねんと感じる事が多かったかも。
足の踏み場も無いきったねー部屋だったし。


とはいえ、自分ちの中も最初は落ち着かなかった。
シンママとなった母と住み始めたウサギ小屋みたいなアパートはあまり快適じゃなかったし、例え友達ができても呼べないくらいの狭さで恥ずかしい思い、みじめな思いを充分に味わった。

頑張って養ってくれて勿論今では感謝しているが、陰ガキ時代の当時は自分の事しか考えられず、ずっと不満だった…。
自我がどんどん形成されていく頃にこうした環境に置かれ、私は更にひねくれてしまった。

おじいちゃん(母のお父さん)がこの頃くらいに病気で亡くなって、何故だかわからないのだけど末っ子の母が色々と引き受けていて、とんでもなく狭いアパートなのに棺に入れられたおじいちゃんのご遺体と一晩共に過ごした時があった。
全然いい子じゃなかった私は単純に「怖い」という思いしか抱けなくて、おじいちゃんの死を全く悼んでいなかったと思うし、母達には申し訳無かった。
……いや、祖父だけどそんなに喋った経験の無い人だったし、普通にめちゃくちゃ狭い空間に遺体と夜一緒に過ごすのが怖過ぎてもしょーがなくない?とは思ってしまうところもあるんだけど。
小学生の私は、「お父さんと最後にウチで過ごせて良かった」と言って涙を流す母を見ても何も思わず、メチャクチャ距離が近い棺がとにかく怖いからこっちは泣けないし、お願いだから早く夜が明けてくれないかなーなどと考えていた。


みすぼらしい生活を送っているのに、母は何故か挨拶を正確に言う事を私にしつこく強いたりと、細かい部分で非常にうるさかった。
(※おはようと何気なく言ったら、おはようございますと言いなさい!と怒られる等。おはよーと言える家庭が羨ましかった時期もある。)
今思えばわりとくだらないところを拘るタイプの人で、私は幼い頃からちょくちょくストレスを感じた記憶がある。

学校から帰った後、色々やってしばらく時間を置いてから爪を切っていたら、「夜に爪を切るもんじゃない。蛇が出るよ。」などと意味のわからない事を言われたりもした。
まだ夜が更けていない上に、蛇が出る地域では全くない。
にも関わらず、根拠の無い話で爪切る時間帯についてゴチャゴチャ言われるので、小さい頃からかなり嫌だったのを覚えている。

夜に爪を切るのが良くないとされているのは大昔の風習で実際にあるっぽいけど、後々調べてみると、"夜に笛を吹くと蛇が出る"という言い伝えとごちゃ混ぜになっている感じだった…。
意味ありげな内容をくどくど言い続けるなら、せめてちゃんと調べてモノ言ってくれよと思ったが、母も昔親や周りから言われ続けていた文言だったかもしれないので黙っておいた。
ちなみに爪は何時に切ってもいいだろと昔から現在までずっと考えている。
現代でやっちゃいけないなら明確な理由をくれよって感じ。
無意味に家族の生活押さえ付けるのは非効率。


小学校低学年の頃は生活が変わって色々あったし、明確に嫌な思いをした事も多い。

特に最悪だった思い出は、ボロアパートへの引っ越し後、なんと叔父が金を借りた闇金が我が家に電話をかけてきた時だ。
私と母は無関係だったのに、クソ過ぎる。

鍵っ子になったばかりの私が何も知らずに電話に出た時、「おーーい、のあーー、Hした事あるかーー?」といきなり闇金業者の知らない男の声に訊ねられ、とても怖かったしショックを受けた。

知らない怖いおじさんに名前を呼び捨てにされて、男相手に金を取れるかどうか訊ねられるのは小学校低学年の幼い女子にはキツい。
後ほど、電話出ないでよ!と母に注意されたが、そんなの教えて貰っていなかったからわからない。
突然怖い思いをした上に、親からも怒られてしんどかった。

結果母は激怒して、すぐに借金した兄(叔父)に文句を言ったり、なんか警察を呼んだりしてくれたんだけど。
下校して自宅に一人でいる時や近所を歩く際にかなり怯え続けてはいたが、結局何もなかったので、そのうち我が家のムードは普通に戻った。
当時最高に怖かったイヤな思い出だ。

ていうか、こんな兄貴がいて、何が「その昔城を持っていた家系」だよ……と思って、母にも謎に苛立ったのを覚えている。
私達も含めて、お母さんの兄弟みんなバカで貧乏暮らしじゃねーか、と。

どんなに本人が穏やかな性格でも、事の発端となった叔父さんの事は、今現在も正直好きじゃない。
優しい人ではあるけどジジイになってもヘラヘラしてばかりで、のちに奥さん(外国人移住者だけど実家が太いお嬢様)の仕事が軌道に乗って生活がだいぶ安定するまではずっとこんな感じだった。
しょーもな。
まず、私にも怖い思いさせてゴメンって謝って欲しかった。


母は昼間OLをやって私の為に頑張って働いてくれたけど、鍵っ子時代はなんだかんだ孤独だったし、困った時に大人がいないと心細い。

私は小学校低学年のうちは寂しさからついイライラする事も多かったし、かなりアホだったので、鍵を忘れて家に入れない時にカッとなってカッターナイフでピッキング(ですらないけど)をして鍵穴に刃を詰まらせ、結局鍵穴交換する事になって母に大目玉を食らった事もある。
これは流石に頭が悪いので申し訳無かったけども…


でも、ボロアパートで大きい動物は絶対に飼えなかったけど、途中お魚や文鳥を貰ってきて一緒に飼ったり、母子2人きりで交換日記を始めようと提案しだしたり、私が少しでも寂しい思いをしないよう、普通の感性に育ってくれるよう努力してくれた方だと思う。

母の日に、私が今までの人生で貰ってきたお年玉をかき集めて5,000円以上くらいのカーネーションの花束を購入した事があるらしく(自分では一切覚えていないが…)母は最初それに感謝してくれたが、流石に私が利用した花屋さんへ行って話をして、一輪を除いてどうにか返品したそうだ。
善意にしても何にしても、はた迷惑な行動が地味に多い子だったかもしれないな。

私がもっと聡明な子だったら、成績や周りからの評価が良かったら、小さい頃からお手伝いを本気でやれる子だったら、色んな形でお返しができていたのかな。

…でもまあ、自分もこれより20年ほど後にシングルマザーを経験して思うのだが、マトモな親なら多少手がかかっても責任持って子どもを養い続けるし、寂しくないよう生活が少しでも楽しくなるように工夫してあげるのは当たり前だし、私も離婚後は自分の子にそうしてきた。

もっと言えば、どんな形であれ片親の道を選ぶのは親の勝手で、子どもは一方的に割を食う場合が多いので、その分親が努力して幸せにしてあげなきゃいけないと思っている。
(親に感謝していない訳じゃないよ!)

新しい生活が板についた後も私は相変わらずで、頭も良くなかったし、そもそも同級生のヤジのせいで勉強も落ち着いてしづらいし、4年生くらいで教室でお漏らしをしてしまうほどに内面も幼かった。

書いてて情けなくなるね。
漏らした時の事はあまり思い出したくないけど…。
よう教室のド真ん中で漏らせるな、逆に。

話を聞いていなくて、次に移動する教室がわからず、一人だけ授業が終わるまでずっと廊下で立ち尽くしていた事もある。
今にして思えば結構ヤバいと思うが、とにかく何も考えられず、ただただ悲しい気持ちでその場に立っていた記憶。
やがてチャイムと共に移動先の教室から戻ってきたクラスメイト達も、不思議そうな顔でこちらを見ていた。


友達は少なかったし、お小遣いも全然無かった為、子ども同士で近所以外に遊びに行ったり電車に乗ったりもほぼ経験がなく、電車の乗り方もだいぶ成長してからちゃんと知ったくらいだった。

生活は暗かったが、学校からの帰宅後の一人時間は徐々に楽しくなり始めた。

心の支えだった漫画を読むか、母がせめて寂しくないようにと途中で繋いでくれたケーブルテレビのアニメを観たりするか(アニマックスとかカートゥーンネットワークとか見てた)、従兄弟の超お下がりのスーファミかゲームボーイで遊んで、ずっと大人しく過ごしていた。

特に楽しかったFF6とMOTHER2、いずれも名作だけどカセットと本体が古くてデータ消えて心折れたの思い出して懐かしすぎる……。
世の不条理を最初に学んだ時だったかもしれない笑

FF6はその後どうにかクリアしたが、MOTHER2は中盤プーと合流するあたりでデータが消え、その後頑張って一からまた進めて最終戦前まで漕ぎ着けたが、そのタイミングで再度データが消えたのが萎えすぎて未だにクリアしていない。
(今現在Switchでプレイできるのでそのうち…とは思っている。)
それにしても、ギリ友達の家でもスーファミ稼動してる所あったけど、息の長い名ハードだよね。
ファイナルファイトみたいなベルトスクロールアクションのセーラームーンの謎ソフト…好きだ。

後ほど中古のPS1もお下がりで貰ったのだが、プレイステーションソフトもかなりオモロかった。
90年代後半の雰囲気エモエモのエモ。
3Dムービーが入るし、めちゃくちゃだけどストーリー面白いゲームが多かった気がする。
こんな感じで親戚のお兄さん連中からの貰い物ばかりで、最新のゲームは全然遊んでいなかったと思う。

いや、のちのち誕生日に父からプレゼントして貰ったゲームボーイカラーとそのソフトは新しかったな……確か。
ポケモン金銀と、それ以降もクリスタルまでのポケモンは毎回どうにか入手して結構楽しんでいた。

ポケモンが面白いのは誰もが解る周知の事実として、マイナーなソフトも結構好きだった。
父が中古ゲーム屋さん巡りに付き合ってくれるようになってからは、頑張って買ってもらって色々と揃えた時期もあった。
そのうち鍵っ子で放課後もずっと一人で過ごす事に抵抗なく、むしろ一人の時間が楽しくて仕方なくなったっけ。

コーエー(現コエテク)のもんすたあ★レース2というゲームもハマって、記憶力の悪い私にしては珍しく今でもBGMや使用モンスターを思い出せる。

サンリオタイムネットというサンリオ版ポケモンみたいなゲームもやり込んでいて、一度父におねだりして幕張メッセまで連れて貰ってイベント限定モンスターもゲットしたが、ラスボスのザッキーの顔グラが当時怖くて(今見れば全然なレベルだけど)、おまけに強過ぎて何度も心折られ、戦闘前のモンスターっぽいグラに入る前の時点からザッキーの姿を恐れるようになってしまい、とうとうクリアができなかった…。

なんか、考えてみれば、良くも悪くも幼い頃から常に一人の時間があったんだな。

家庭を築いた今でも、私はこういうお一人様時間が必要で狂いそうになる瞬間がある。
とはいえ愛する子ども最優先という気持ちが勝るので、ごくたまにだけど。


一人っ子、学校での時間が苦しい、ひとり親、バカ、鍵っ子、いずれかのファクターが関係しているのかどうか定かではないが、小学生の頃は自分自身のペースとテリトリーを守る事に優先順位を上げて生きていた。
それも、無意識に。

いよいよ根暗になっている気もしなくもないが、ゲームや漫画やアニメといった楽しい事が人生に出現して、それらにハマること自体は仕方が無い。
そのうち、母がどこで入手したのかデスクトップPCを家に置いたので、そこからは私もインターネットを見よう見まねで使い始める事になる。
(と、書いたところで大昔のダイヤルアップのインターネット接続音が脳裏に過って泣いた。バカエモい……)

やがて母不在時でも自由にPCを使えるようになり、ネットも私の生活の一部となる。

あまりに楽しかった。
世界が一気に広がった。


切っ掛けは思い出せないが、小さい頃から私はアニメやゲームの女の子キャラが大好きだった。
キュートでセクシーな2次元女子にめちゃくちゃ惹かれた。
現実世界のアイドルやタレントはよくわからないので、絵の中のキャラクターに限るというか。

性の目覚めも女の子キャラのイラストだった。

実は自慰行為自体は、ネットでたまたまエロい知識を見てしまうよりも遥か前から既によく判らず行っていたのだが(幼い頃に床オナ的姿勢で目覚めた)、この頃からは更にエロに興味を持ち始め、2次元の女子キャラのパンチラとか際どい絵とかを見ておまたをこしこししていた。

その後の人生でレズに目覚める事は一切無かったけど、性的趣向はわりと男よりな気はする。


そのうちワンピースのナミさんにどハマりし、ネットを使えるようになって好きなキャラ達の二次創作イラストや小説にもハマった。

親に内緒でめちゃくちゃな量のお気に入り創作をプリントアウトして保管したり、小5~6くらいの頃にこっそり通販で小さな同人誌を買ったりもした。

ネットなら自分の琴線に触れる作品をいっぱい見つけられる事に感動したものだ。


こうして、ゲーム・漫画・ネットのお陰で自分の心の居場所を見つけたと思ったのだが、このアパートで生活を送っている間に母に気持ち悪い彼氏ができた事があり、その後は再び不安な思いで過ごす。


この彼氏、どこからどう見ても母よりも歳上のオヤジで、ブサイクで性格もさして良くもない太ったメガネデブで、あだ名はタヌキ。
(本人がそう名乗った)
まぁ外見はさておき中身もホントに全然良い男じゃないので、当初はよくわからないなあと思いつつ、それでも子どもだったのでただ母に言われるままに3人で過ごした。
タヌキは毎日訪れるわけじゃなかったけど、最初はまあまあの頻度でウチに来ていたと思う。

このタヌキジジイといい実父といい、母は男の趣味が悪いと思う。
シンママになってからは選り好み出来なかったっていうのもあったかもだけど、それにしてもだ…。

そのうち、タヌキがふざけてセクシーな雑誌記事を子どもの私に見せようとする無神経さに母が愛想を尽かすまで、二人の関係は続いたと思う。

私とはそんなに仲良くなれていないのに、たまにノコノコとうちに泊まりに来るタヌキ。
私は小学生、アパートは非常に狭いが襖を挟んだむこうで2人はいつも寝て、私は1人で寝ていた。
母がどういうつもりだったのかは分からない。
相手は結構歳いってたけど未婚らしく、不倫ではなくて良かったと思う。
なんだか異様な雰囲気だったけどなあ。

玄関先で、私が見ていないと思って母と行ってらっしゃいのキスをしている姿を目撃してしまった時の衝撃は忘れられない。
セックスを見たり聞いたりは一切無くても、なかなかキツいものがある。
性格良くもないデブ眼鏡の気持ち悪い中年オヤジと目を閉じてキスする母。
今考えても無理過ぎる光景だったな……。
ていうか、泊まりの日ってヤッてたのかな?
あまりに部屋狭いから私も気付きそうだし、流石にウチではしてないか…?

実はリアルタイムで母とつい数日前に会ったので、思い切って訊ねてみた。
何で当時アイツと付き合ってたん?と。

その答えとしては、
「当時は婚活に必死で、のあの今後の学費や生活費、心の安定の為に、友人知人から紹介された相手と手当り次第デートしたりしてパパを探していた時期だった。そのうちタヌキさんと付き合ってみたけど、やっぱ色々合わなくて別れちゃったね…。」
との事だった。

今後順に詳しく書いていくが、私も色々あって今はまあまあその気持ちが解るので、「ふーん」で終わった。
いや、母とは状況が結構違うけども。

それに、やっぱタヌキが家に居た光景はいつ思い出してもキモかったけども。

シンママで再婚に向けて恋愛するなら、少なくとも子どもが不快に思わない相手としないといけないね…。



余談


そう言えば、初代たまごっちのぎんじろっちを36歳以上まで育てきり、電池切れにより殺した事がある。
(当時の)お母さんと同い歳まで育てたよ!と得意げだった記憶がある。笑

学校へ行っている間は持ち込めないので、登校前にステータス画面とかにしておいて時間を進めないのがコツだった。


…初恋もなく親友もおらず、同居している母親は仕事に婚活に忙しそう。
私は心の安定を求めてゲームと漫画に没頭し、たまにネットで小説を読んだりマウスで絵を描いたり、HPを立ち上げたりしてマイペースに過ごしていた。
よくいるオタク女子の爆誕である。

とここまでが、大まかな私の小学生時代の話だ。


以上、中学生編に続きます。

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次のお話「しんどいティーン時代の話

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のあメス
この前ふいにアイスカフェラテを奢っていただく事があり、これぞささやかだけど大きい幸せだぁ!と思いました。 なんだかいつもより美味しく感じました☕️ 誰かからカフェラテを飲ませて貰える分、明るく生きられる気がします。

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