教えることの難しさについて

最近、「先輩らしくある」とはどういうことか、をよく考えています。


私は自己肯定感が低いので、他者に対して上から物をいうことで立場を保とうとする人間であると解釈しています。
そのため先輩という立場になるたびに、私の自尊心を満たすために”教えている”のではないか?と自問自答するのです。

今話した内容は本当に相手のためなのか?「誰かにとって有用な人間でありたい」という気持ちの現れなのでは?

教えることが自己表現の一部になってしまって、たいそうな人間でもないのにどの目線で物事を言ってるんだと自分を殴りたくて仕方ありません。


けれども相手が教えて欲しいと願ってきた時にのみ話すというのも、なんだか違う気がします。

私自身、先輩に教えてくださいと積極的に言える人間ではなく、今までいろんな人からお節介を受けて成長できました。
だからそれを人にも与えたいと思うのです。

ただアドバイスをしすぎるとそれは自発的に動いて得た知識ではないから、身につきません。
つい色々と教えたくなってしまうのですが、そういう”お節介”は本人のためにならないから本当に難しいです。


植物に水を与えすぎると腐らせてしまう。
でも水が欲しいと声を上げることができない植物が枯れるしかないという現実は悲しくて仕方がありません。


とある人と話したときに、先輩らしさとは「少しの暴力を振るえること」だと回答を頂いてすごく感銘を受けました。

これはけして物理的・肉体的なものではなくて、あくまでも精神に対する暴力の話です。

教えは贈与だから、何かアドバイスをしたところでどう受け取るかは本人次第で、それを無用だと思う人、ありがたいと思う人、怒る人など様々いて予測がつくものでもありません。

受け取り手の気持ちを考えすぎず、ちょっとした暴力を振るうことができれば先輩らしい、のかも。









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