マングースを飼っている、とウソをついた事がある。
マングースを飼っている、とウソをついた事がある。
時代はまだ昭和…川口浩探検隊シリーズでしかマングースを見た事はなかった。小学校の中学年の頃、仲のいい友達3人くらいで、自転車に乗りながら話していた時だった。
友人の1人が、嗤いながら「見せてよ」と言い出したので、『昼間は寝てるから』と言って断った。
今度は別の友人が、ニヤニヤしながら「起きてる時に行くから」と突っ込んでくるので、『起きてても動きが早過ぎて見えない』と、よくわからないウソを重ねていく。
僕が何としても見せようとしない事に皆察しがついたのか、飽きてしまったのか、追求を諦めたようだ。僕はホッとして、またいつものように友人との他愛もない話に興じていく。
お金について考える時、僕はこのエピソードを思い出す。僕の家は共働きで、裕福ではないものの、決して貧しくはなかった。ただ、母親が少しストイックな思想の持ち主で、兎に角、モノを買ってくれない人だった。最近になって、「渇望するくらいがちょうどいいのよ」と妻に語っているのを聞いた。僕は、母親によって、敢えて与えられずに、育てられたワケだ。
そう、だから僕は渇いていた。友人達と同じ様なモノを持ちたかった。でも持てなかった。だからウソをついた。他愛もないウソだ。皆の気を引きたい一心で、皆が持っていないモノを『持っている』と言いたかった。その思いは、僕が社会人になって家を出るまで、常に僕の中で消える事なく燻り続けていたのだろう。給料は稼いだだけ使い、ひたすら欲しいものを買い続けた。腕時計・靴・鞄…時には借金までして。
今、僕には娘がいる。
6歳になる僕の娘は、僕と同じ一人っ子でありながら、かつての僕とは正反対に、常に与えられて育っている。(驚いた事に、あの母親ですら、娘には望みのオモチャを買ってやるのだ!)
与え過ぎは良くないかも知れないが、与えなさ過ぎもまた良くない、という事を僕は身を以て知っている。だからその経験をもとに、娘には、キチンと欲しいものは与えつつも、お金に対するリテラシーを高めてあげたいと思っている。
お金はなくても幸せになれる。
でも、お金があればもっと幸せになれるかも知れない。