【七峰】ポケモンコンシェルジュ4話考察 ~弱気なピカチュウ感動のメカニズム
本書は作品のネタバレを含みます。
先に本編を百回見てほしい。
泣いてしまうとその正体を分解したくなる
別書のレビューに書いたが、4話「ようこそポケモンリゾートへ!」はもろ手を挙げて喜べない点がある。
アスレチックの高所でピカチュウがぶるぶると震えて怖がっているのに、次のシーンでは見たところカイリューに乗ってきたものか、山びこ体験のために山中の崖に降り立っている。
なんとかポジティブに受け取るならば、ピカチュウは怖がりのさみしがりなのでナオと一緒に遊びたいだけであり、ひとりではどうしても勇気が出ず、そのため高所恐怖症ではないという解釈もできなくはないが…………大谷育江氏渾身の震え声も相まって、ピカチュウがかわいそうにしか見えない一幕だ。
その後の展開も、ナオの「ピカチュウに大きな声を出してもらいたい」という要求にハルが知恵を絞っていることでピカチュウ自身の欲求に応えられておらず、ポケモンファーストとはなんだったのか? と視聴者として疑問を感じるようになってくる。
そういった「失敗作戦」を経てもなお、本話のクライマックスには感涙のメカニズムがいくつも仕掛けられている。
・逆光でいいことを言う
夕陽をバックに誰かがいいことを言うと、人はなんとなく感動してしまう。
あるいは夕陽という一日の終わりが、やがて来る別れの時を連想させ、それまでの僅かな間に何を伝え残すのか、というステージに人間を立たせるからなのかもしれない。それとも単に綺麗な風景の中で美辞麗句を並べるといいことのように聞こえてしまうのか。
そして何よりも、ここでハルが提示した芝すべりの遊びをナオの方から「一緒に行こう」と誘いかけることによって、ひとりでは何をするにも怖がっていたピカチュウが初めて心から笑った表情を見せるところがクライマックスへの導線となっていると考えられる。まあ、むしろここで喜んでもらわねばどうするのだという点でもあるが
「人間の都合に振り回されるかわいそうなピカチュウ」を最初に印象付けて、そうではなく今目の前にいるピカチュウの個性へと向き合い、ピカチュウ自身を楽しませること(ふたりで同じ方向を向いて遊ぶこと)にスポットを当てる。
ハル自身もそれに気がついたのは自分の描くピカチュウの絵が「当たり前」のそれではないことを悟ったから、というのも興味深い。
思えばハルは一般社会で他人の顔ばかり伺い(1話ラストのワタナベとの面談でその性格が垣間見える)窮屈な生活を送っていたが、ポケモンリゾートで自由気ままなポケモンたちの暮らしぶりを見てそれまでの「大人らしさ」という仮面を外し、大いに子供返りする。
それが結果として無邪気な童心(および子供の想像力)そのものであるポケモンと人間の狭間に立つポケモンコンシェルジュとしての役割に結びつき、やがてパートナーとなるコダックの心を開く。そのコダックに頭痛をもたらすねんりきを、自分の意志で自在に使えるように育ててみせ、当初は引っ込み思案のようだったコダックが積極的にリゾートのコミュニティと交わるようになる。
欠けたピースが埋まる。つまり相補性が本作の根底にあり、それはポケモンシリーズ全体のテーマにもなりうると筆者は信仰しているが、ナオとピカチュウにおける欠けたピースである「大きな声を出せない」という問題の解決は、彼らとの別れの日まで持ち越される。
・楽しい時間の終わり。残された思い出とプレゼント、そして欠けたピースが埋まる成長
別れ際にピカチュウが声を張り上げる。
字に起こせば淡泊なその表現のために、引っ張って引っ張って、ここぞというところでその瞬間が立ち現れる。
出港する船と波止場という、もはや二度と触れ得ない状況だからこそ別れを惜しむ言葉が遠く響く。
ああすることでピカチュウは初めて、自分がしたいことを成すことができたのだと思う。ひとりでは出なかった勇気がハルやコダックやナオに支えられて、ついに一歩踏み出すことができたのだ。
そしてテーマソングである「君の居場所(Have a Good Time Here)」が、この出会いの幕引きをやさしく包み込む。
この曲の歌詞を聞き込むとハルのことを歌っているようにも感じられるし、本作の視聴者が自分に重ねることもできる。
その上で、ポケモンリゾートという「居場所」は観光客らにとってはバカンスというハレの日に束の間滞在する場所であり、ポケモンコンシェルジュとはそんな「居場所」がここにあると支えてくれる仕事でもあるのだろう。
以上、感動的な場面に至るまでにすこし遠回りだった気がするのに、何度でも嬉し涙を流してしまえるメカニズムを考察した。