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深夜の防波堤にいた。夜釣りを愉しむ太公望たちに紛れて、ある取引の情報を手にいれるのが目的だった。
俺は争うことが苦手だから、人との争いを避け続けた人生を送ってきた。俺が何をしたって言うのだ。恨まれるような事だってしたことはない。そんな俺が何故こんな目に遭わなければならないのだろうか。
何かの気配を感じて振り向いても誰もいない。身体中の激痛で気が付くと、俺は血塗れになっている。病院に行こうにもなんの説明も出来ない。同じことを何度も繰り返しているから、もう行ける病院もない。ヤツが何者なのか、何を目的としているのかわからない。俺は何十年もの間、苦しみに耐えてきた。それももう限界だった。
あらゆる手を尽くし、ある裏サイトにたどり着いた。その裏サイトによると、とんでもない薬物が開発されたとの事だった。ほんの少量だけでターゲットを無きモノに出来る、しかも何の痕跡も残さずに。そんなものが本当にあるとすれば俺はこの苦しみから解放される…。そして、ワラを掴む気持ちでenterキーを叩いた。
指定された場所は防波堤だった。釣りをする服装で、指定の釣具を用意しろとのことだった。合言葉も用意されていた。
海に垂らした釣り糸とともに緊張の糸が張り詰める中、使者の訪れを待っていた。気が早っていた俺は、約束した時間の1時間以上も前から釣りをしていた。何の釣果もないまま時間だけが過ぎていった。すると、そこに黒い服を着た男がやってきて、2m位離れたところで釣りを始めた。もしかしてこの男か?そう思いながらも無言で釣りを続けた。
その男は面白いように釣果を上げていたが、自分はと言えば全く相変わらずのボウズだった。
「釣果はあるか?」
不意に男が話しかけてきた。
「アタリはあるけど餌が捕られるばっかりだ。」と返すと、「そうか、いい餌があるけどよかったら少し分けてやるよ。」と男が言った。
間違いない。この男が情報屋だ。
「確実に釣れるなら頼むよ。」
そう返事をすると、「俺はもう釣果があったから帰る。お前にやるからこれで本命が釣れるといいな。」と、釣餌の入った小箱を手渡してきた。
餌箱を受けとると、男は釣竿を手早く片付けてその場を立ち去った。餌箱を開けて見ると、中には受け渡し場所や時間等が書いてあるメモ用紙が入っていた。
どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。俺は餌箱を受け取った後もその場に残り、釣竿の先を海に垂らし続けていた。針につけた餌など、とうの昔に喰われて無いのだから釣れるはずもないのに。ただ、張り詰めていた緊張の糸を解すには必要な時間だった。
受け取った紙に書かれた指定場所は、都心の高層ビルだった。待ち合わせ時間は、お腹を空かせたビジネスマンの波にのまれる事が想像に易い昼時だった。ビルの入り口には数人のガードマンが立っている。こんな人目の多い場所で大丈夫なのか?そう思いながら、エレベーターに乗り込み、指定された階数のボタンを押した。
そのフロアには中国料理店があった。店の入口には、オープン前にも関わらず人の列が出来上がっていた。店の外見はそんな取引が行われるような雰囲気ではないけれども…。そう思いながら、その行列の後につき入店を待った。
何かあったときのために店名を撮影しようとポケットに手を入れたその時、黒服の男に呼び止められ、心臓が飛び出すかと思った。少し緊張しながら、黒服の男に言われるがまま、店の奥へと足を運び指定の席についた。
緊張で喉が乾く。ジャスミンティーを何杯お代わりしただろうか。また空になったグラスにジャスミンティーを貰おうと辺りを見回すと、此方に向かって歩いてくる人物がいた。防波堤で受け取ったメモに書いてある通り、杖をついた老人がゆったりとした動きで正面に座った。
顔を見ると、何処にでもいるような老人にしか見えなかった。
「お前さんは、こういった席は初めてか?ここは、何処にでもある中国料理店だから、そんなに緊張しなさんな。」
普通の食事になら何度も行ったことはあるが、今日は食事が目的ではない。そんなことを言われても取引の場所だ、緊張するのが当たり前ではないだろうか。
「あ、あの、こんな人目の多いところで…」
そう言いかけたところで、老人はニヤリとして言った。
「若いの、『木は森に隠せ』と言うだろう?聞いたことはないか?人が多いから沢山の目があるように見えて、誰一人気にしていないもんだ。勿論、奇抜な格好や言動をしたらその限りではないがな。大体、ドラマとかでよくある人気の無いところでの取引なんぞ逆に目立つし、人の目には怪しく見えるもんだ。」
「なるほど…」
そこへ店員が来て、紹興酒、白磁の湯呑みと壺、小箱をテーブルの上に並べていった。壺の中には小さな白い粒が入っていた。
「お前さんは、紹興酒を飲んだことはあるか?」
「たまに…」
そう答えると、ポンと白い小さな粒の入った小袋を投げてよこしてきた。
慌てて手のひらで受け取り、顔を上げて老人に訪ねた。
「これは?」
「お前さんが欲しがったんじゃないのか?」
あまりにも大胆な受け渡しに、驚きを隠せず硬直してしまった。それを見た老人は笑って言った。
「ホッホッホ、まぁ無理もないわな。老人は話を続けた。
「紹興酒も種々あってな、本場の紹興酒から台湾紹興酒までピンきりだ。本来の紹興酒は何も加えずに飲むもんだ。このうち、台湾の紹興酒は酸味が弱かったり強かったりするもんだから、梅や砂糖を入れて飲むんだ。この店は、大抵の紹興酒を取り揃えているから、台湾紹興酒もそれに入れる砂糖もある。で、この砂糖がポイントでな、普通はザラメとか氷砂糖なのだが、見た目を良くするために、さっき渡したソレと同じ形をしておる。そして、ここでは客に持ち帰らせるために小袋を用意している。大抵のお客は小袋に入れて持ち帰る。『木は森に隠せ』だ。」
テレビや映画で見たものとは全く違う、大胆にも程があると思った取引だった。木は森に隠せ…か。それから数時間後、家にたどりついた俺は取引のやり取りを思い返していた。
これがあればヤツとも…
今、これが読まれているということは、ヤツと決別出来たと思っていいのだろう。俺には確認する術がない。何故なら、俺は恐らくこの世にいないからだ。
長年かかってしまったが、分かったことがある。俺を長い間苦しめた『ヤツ』は俺だった。正確には俺が生み出したオレだ。極度のストレスがかかるとヤツが現れるのだ。俺は人と争うことを避け続けてきた。抑圧してきたストレスが別の人格として現れてしまったのだろう。最初のうちはそんなに頻繁ではなかったからわからなかったが、最近になって頻度が多くなってきてわかった。切っ掛けは、上司による理不尽な”口撃”だった。俺は上司のストレス発散の吐け口にされ、それが徐々にエスカレートしてきたのだ。
それがわかったところで、どうにもならないのだが…。
ヤツを生み出してしまったが最後、極度のストレスを受けるとヤツが現れるようになってしまった。
上司は会社にいる時だけではなく、唯一心が安まる自宅にまで吐け口を求めてやってくるようになった。もう、逃げ場なんて何処にもない。
こんな日々に意味なんてない、ウンザリだ。もう、終わろう…。
何だコレは?誰が書いた?
俺の字みたいだが…
ん?この袋の中身はなんだ?
まあ、いいや。
明日も朝は早いし夜も遅い。早く寝ないと…
電気を消してベッドに潜り込んだ。瞼を閉じると、瞬く間に一切の感覚を消失したような深い眠りについた。