フ イ ル ム
大学入学まで一年余計にかかったが、何事もなく無事に卒業した僕は、今年から会社員になった。同期は沢山いたが、配属になった支店にはたったの二人だった。同期は金山と言った。趣味は登山、カメラ、スキーなど多趣味で、共通の趣味がスキーだった事もあり、あっという間に仲が良くなった。僕は彼の事を『きんちゃん』と呼んだ。
入社した年の冬、初めて満額のボーナスを貰った。金山の影響で、自分も一眼レフカメラで写真を撮ってみたい気持ちになり、両親のプレゼントを買った残りで入門機を買った。早速、次の休日に写真撮影へ行くことになった。
僕達は会社の寮に住んでいた。食堂から、何やら珈琲のいい香りがしてきた。香りの主はきんちゃんだった。僕は、前日に買ってあったサンドイッチを冷蔵庫から取り出してテーブルについた。
「珈琲飲む?挽きたての淹れたて。ブラックだけど」
「うん。いい香りだね。この豆は何?」
「キリマンジャロ」
僕はきんちゃんが淹れてくれた珈琲の香りと味を楽しみながら朝食を済ませ、それから直ぐに寮を後にした。
僕が自称カメラマンとしてデビューした場所は、きんちゃんオススメの展望台だった。展望台からは海岸線から海上に張り出した高速道路が見えた。ここに来るまでに実際に走った高速道路だ。きんちゃんに絞りやシャッター速度などを教わりながら、展望台から見える景色を撮影した。買ってきたフィルムは、あっという間に残数がゼロになった。
写真の出来が楽しみで仕方がなかったが、後日、現像された写真を見ると、自分の想い描いていたものとは程遠い仕上がりだった。
仕事で撮影した写真の現像は、近くのカメラ店に依頼していた。フィルムを現像依頼の封筒に入れておくと、カメラ店の店員が、前回依頼した写真の納品に合わせて封筒を回収するシステムになっていた。
他の店で現像してもよかったが、個人でも依頼出来るし、取りに行く手間も省けるから選択肢はひとつしかなかった。
僕は、初めての写真撮影以降、すっかり写真の虜になり、一人でも写真撮影に出かけるようになった。被写体として雲や夕焼けなどの景色を好んだ。
「お世話になりまーす」
事務所内に良く通る女性の声が響いた。それは、カメラ店の店員の声だった。今まではおじさんが回収に来ていたのだが、この日を境に元気の良い声が響くようになった。
新しい担当は、ショートカットが似合うボーイッシュな女の子だった。最初は、良く響く声だな、程度にしか思っていなかった。
季節が春の陽気から夏の灼熱に変わる頃、僕は彼女のある特徴に気が付いた。彼女は、冬でも夏でも長袖を着ていた。それを切っ掛けに、彼女の事が気になって仕方がなくなった。
僕は、何とか彼女と接触しようと行動を開始した。彼女は事務所に入るときに必ず挨拶をする。それを合図に席を立ち、トイレに行く振りをしてすれ違い、挨拶を交わすというところから始めた。
中学生でもしないような作戦から徐々に距離を詰め、どうにかこうにか、フィルムを回収する時に雑談ができるまでになった。
「すみません、これ個人のですけど写真の焼き増しをお願いします」
「あ、この写真!店長と話をしていたんですよ、いい写真だって」
「え?ホントに?」
「ええ、私もこの写真好きです」
そんな会話を交わせるようになったある日、僕はいよいよ気持ちが押さえきれなくなり、思わず駆け出した。フィルムを回収し終えた彼女を追いかけるために。
一段飛ばしで階段をかけ下り、入り口の手前で彼女に追い付き声をかけた。
「あ、あの、名前、名前を教えてもらえませんか?」
「いいですよ。ナミって言います」
彼女はあっさりと教えてくれた。
「ぼ、僕の名前は……」
「知ってますよ。だってほら」
彼女はフィルムの入った封筒の記名欄を指差して微笑んだ。
彼女の微笑みで緊張が解れた僕は、その勢いで更に一歩踏み込んだ。
「よ、よかったら、写真を撮りに行きませんか?一緒に」
「はい、私でよければ」
なんの躊躇もない返事に、自分で誘っておきながら驚き、暫く固まっていたのだろう。彼女から言われて我に返った。
「いつにしますか?」
「え?」
「誘ってくださったじゃないですか、一緒に写真を撮りに行く日にちですよ」
「あ、えっと、今週の日曜日とかどうですか?」
「日曜なら空いてます」
彼女は手帳を見ながら、そう言った。
その日、僕らは海に沈む夕陽の写真を撮るために海岸に来ていた。空には雲が殆どない絶好の撮影日和だった。
陽が沈むまでにはまだ早い。彼女は、砂浜に設置したポップアップ式のテントにカメラを置き、波打ち際で波と戯れた。僕は、彼女の自然な笑顔の瞬間を逃すまいとシャッターを押しまくった。それに気が付かれないように、ノーファインダーで。
その時、少し大きな波がたつのを見た僕は、思わず叫んでしまった。
「あ、波!」
「私の事を呼びました?」
彼女は少し悪戯な顔つきで言った
そう言われた僕はその意味に気が付き、動悸が激しくなるのが解った。
「いいですよ。ナミって呼んでも」
照れて何も言えなくなってしまった僕に、彼女が言った。
「今日撮った写真は、私が現像してあげる。というか、させて欲しい」
家の側まで送ったその別れ際、ナミが手のひらを差し出して言った。
言われるがままにフィルムを手渡したが、ナミの姿をこっそり撮影していたことを思い出したのは手渡した後だった。
「今日は楽しかったわ。また明日」
「こちらこそありがとう。また明日」
その明日は来なかった。あの夜を境に、彼女のよく通る声がなくなり、以前のおじさんの声に戻った。車の中で聞いたら、おじさんは店長で、ナミの父親だと判明した。
僕は後悔した。毎日会社で会えるから連絡先を聞いていなかったのだ。ナミはどうしたのだろう。それが気がかりで眠れぬ夜を過ごした。
あれから2週間が過ぎた。意を決して、店長がフィルムの回収を終えて帰るときに追いかけた。
「すみません」
「はい。現像の追加?それよりも君、疲れているようだけど大丈夫?」
「ご心配ありがとうございます。そんなに酷い顔をしてますか?」
「今にも倒れそうな顔だよ」
「すみません、店長に聞きたいことがあって」
「ナミさんの事で……」
「ああ、君だったのか……」
店長は何かしら合点がいったように呟いた。
「いつからかナミの笑顔が増えてな。二週間前の夜はそれは嬉しそうにカメラの手入れをしていたんだ。その翌日だ。出勤するときに事故に遭って……」
「事故?ナミさんは……」
「事故に遭った直後、大切なフィルムが……と言いながら最後の力を振り絞って手を伸ばして……。フィルムは後続の車に潰されて……」
呆然と立ち尽くすしか術がなかった僕に、店長が声をかけてくれた。
「家で手を合わせてくれないか?きっとナミは喜んでくれると思う。いいか、出掛けなければ娘が、ナミが事故に遭わなかったなんて思うんじゃないぞ。俺も君も、何時、何処でどうなるかなんて解らないんだ。解ったな?」
僕は課長に半休の届けを出して、直ぐにナミの元へ行った。
短い間だったけれど、ナミに会えてよかった。君の微笑みに僕はどれだけ励まされただろうか。その微笑みを二度と目にする事は出来ないけれど、ファインダー越しではなく、この目で切り取った君の微笑みは記憶に残されているよ。永遠に色褪せることなく。ありがとう。
僕は、今日も海岸に通う。海の、波の写真を撮影するために。