変わった人~雑談シリーズ~
お疲れ様です。あなたの忍耐力で救われる命がきっとあります。
さて、タイトル通り、変わった人の話をしていきます。
と言っても変わっている人を挙げるのではなく定義について述べていきます。
僕は現在医師として働いているわけですが、周りには変わった人が多いです。
よく医者の100人に1人はアスペルガーだという都市伝説がありますが、それはあながち間違いではないように思います。
僕の中で変わった人=空気の読めない人、常識が欠如した人というニュアンスになってくる。
自分の興味ある分野以外に全く関与しようとしない人、上司が大変そうにしているのを脇目に休憩している人、仕事がどれだけ残ってても定時で帰る人。。愚痴っぽくなってしまうのでここらへんでやめておきます。。
ここで、いったん立ち止まって考えてみる。
「変わっている人」とは、「何か基準」があって、それと比べてずれた所があるから「変わっている」と判断するのではないか。
では果たしてその「基準」とは何か。
それは 「自分自身」であり、「常識」なのだろう。
ちなみに僕は自分の事を常識人だとは全く思っていないが、比較的バランスは取れた人間と自負している。(自意識過剰か?)
自分自身を基準とした場合、「自分とは相容れない人」が「変わった人」であり、「自分と波長の合う人」が「普通の人」という判断になるのだろう。
常識を基準とした場合は言わずもがなである。
しかしここで、大きな命題に気がつく。
「常識」とはなんなのか。
広辞苑で引いてみると、「普通、一般人が持ち、または持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力、判断力思慮分別などを含む」とある。
では、「普通、一般」とは?となってくるが、広辞苑は抽象的な事しか書いてくれないのでイマイチ腑に落ちない。
個人的見解を言わせてもらうと、「常識」とは、「大多数がそれが正しい」と認めたもの。であり、逆に言うと少数派の意見は「非常識」なのだ。
僕はこの類の考え方はとても嫌いだ。
多数が常に正しく、少数は間違いとする考えはともすれば多数が少数の考えを抑え込み、自分たちの考えを無理強いするという発想になるからだ。
たとえ話になるけれど、
医学の世界では10年前絶対的に正しいスタンダードと考えられていた概念が、現在全く違ったスタンダードが正しいものとして扱われていることなどざらである。
つまり、「常識」という概念はとても脆く、壊れやすいものであり、「常識」を絶対的土台として信頼していると気が付いたらそれこそ「変わった人」というレッテルを貼られているかもしれない。
というか、もはや「常識」がぐらついた以上、「変わった人」を定義することもできなくなる。
今までの話が全ておじゃんになってしまうが、結論的には「変わった人なんていない」という事になる。
最後に「変わった人」を自分なりの表現におとしこむと、
「変わった人」=「自分とは相容れない、自分とは違った価値観が多い人」であり、「大多数の人が正しいと思った概念を持たない人」ということになる。
僕は自分の事を「普通の、平凡な人間」と捉えている。
自分と相容れない人は苦手だ。
けれど、そういう「変わった人」こそ、凡人の考えの及ばない発想を持っており、人類の発展に寄与する画期的な発明をしたりするのではと思う。
それこそ「常識」に捉われない柔軟な発想によって。