愛するということ(その11)-神への愛
(その11)では、3.愛の対象の項、c.神への愛を取り上げる。
前半部分は、キリスト教徒でない私にとっては、体験がなく、体感もわかないので字面程度のことしか理解できない内容である。
自然への愛とか、ガイアへの愛とか、宇宙への愛として書き直してしまいたい衝動に駆られるが、途中から東洋思想との考察になったあたりから俄然フィーリングがあってくる。
前半部分はほとんど触れないで、後半部分についての感想を書いていくことにした。
その前にくどいようだが、このブログを書き始めた背景をまた、書いておく。
愛という感情というか欲求には、俺は関係ないとつい1年前までの立ち位置だった。死にかかったことで愛に関心が芽生え、愛って何と好奇心を持ってしまった。
Amazonで愛と検索して出てきた本からエーリッヒ・フロム、鈴木晶訳『愛するということ』を読んでみた。
その結果として、印象に残った文章をピックアップして、感想をつけていきます。何を言ってるかわからない時は、引用元の本を読んでください。
こんな内容の本です。
この項の初めは、神の概念を理解するための分析から始まる。
この本の表現を借りると”非有神論的体系をとる初期仏教や道教”に、心が落ち着く私にとっては全く理解ができないし、世界観が想像できない。
有神論的体系では、非神学的な神秘主義的な体系であっても、精神世界が実在すると仮定する。精神世界は人間を超越しているとしている。
一方で、非有神論的な体系では、人間の外に精神世界は存在しないという。愛や理性や正義は実在する。それはひとえに、人間の進化の過程で、自分自身の内部でこれらの能力を発達させることができたからであるとする。
エーリッヒ・フロム自身は有神論の概念で神への愛を語ってはいないとしている.
そして、東洋(中国とインド)と西洋の宗教的態度の基本的な違いについて説明が始まる。
より、わかりやすくはこんなふうに言われる。
ヘラクレイトス曰く。
・我々は存在するものでのあり、存在しないものでもある。
・生と死、覚醒と睡眠、若年と老年はいずれも同一のものとして我々のうちにある。
道教の考え方では、思考が達しうる最高の段階は、自分の無知を知ることである。
「知っていながら知らない(と思う)ことが、最高(の到達点)なので。知らないのに知っている(と思う)ことは病気である」
「(道を)知るものは、(道について好んで)語らない。道について語ろうとする人は(どれほど語り違っても)道を知らない人である」
最高の神に、名前がつけられないということと付合する。神はモーゼに「名無し」と名を明かしたとのこと。
20世紀の物理学では、光が持つ粒子としての性質と波動としての性質が排除し合わない性質であるとなかなか受け入れられなかったことがあたる。
フロムはなぜこんな論理学的な考察をしたか?
神への愛という概念を説明するにも、思考によってはそれを知ることはできないからという。
"神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛を考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。"
出典:エーリッヒ・フロム、鈴木晶訳『愛するということ』p119
わたしは東洋人として、”神”ではなく”(真我に目覚めた人の見る)宇宙”と言い換えたい。
信ずるものは救われると言った類の、他力本願的な教義を持つ宗派に関しては、フロムも否定的な説明を展開をしている。
そして、思考が優先する西洋思想が世界の覇権を握ったことに関しての説明がある。
15世紀の大航海時代からだろうか、世界の最先端の科学技術をもって航海術を得て、それは現在の民間航空システムや宇宙探査技術になっていく系譜がある。
そして資本主義。強欲資本主義とまで揶揄されるように人間性を踏み躙っても数値指標第1の経済に反感が高まりつつある。
核兵器に至る最先端の軍事力で世界を制覇してきた西洋文明主体の歴史を顧みることができる。
そうした思考を優先した文明が行き詰まってきた。まさに東洋の逆説的論理が世界を救わんとしているようにも見受けられる。
神への愛の項は、これでおしまい。
残りは、第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊と第4章 愛の習練。
結構長い章なので、どう扱うかは思案中。
こころざし創研 代表
ティール・コーチ 小河節生
E-mail: info@teal-coach.com
URL: https://teal-coach.com/
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