『死の家の記録』 - ドストエフスキー
若いころ途中で挫折してしまったのだが最近もう一度取りかかってなんとか読み終えた。4月くらいから断続的に読み進めておよそ半年。長かった。あの陰鬱な終わりのない監獄の描写と、長大なそれ自身を読み続ける体験とが一体となるようだった。
最初のうちこそ苦痛を感じたものの、終わりに近付くにつれ親愛なるゴリャンチコフ氏や監獄の仲間たちとの別れが辛くなり、読み終えてしまうことを少し躊躇った。終わったらすぐまた最初から読み始めようかと考えていたくらいだった。
前に読んだ時、皆がお金を預けていたあの狂信者の老人の話で出てくる「笑い方でその人の人となりが分かるような気がする」というくだりは何故か強く印象に残っていた。僕の血肉となってその後の人生にいつまでも残っていたように思う。この辺りに差し掛かった時は思い出の古い風景に再びまみえた時のような感覚がした。印象や愛着は強いのに記憶違いが多いあの独特の感じ。
他にも断片的に覚えているエピソードがあり、どうやら前に読んだ時は第一部の終わりまでは読んでいたらしかった。当時はこの小説に異様なリアリティを感じつつも、しかし全てを読み取ることはできなかった。
“作家は自分の体験したことしか書けない” と言うが、同時に読者もまた自分の体験したことしか読み取れないのだと思う。若いころ読んだ小説を人生のだいぶ後になって読み返すと新しい発見があるのはこのためだろう。
現代日本のブラック労働とそれ中心の生活を体験したあとでは、19世紀ロシアの監獄の話が理解できてしまう。一度も収監されたことのない自分が話の端々にありありと共感してしまうことにちょっとした衝撃があった。
外から物品を入手するルートがあり酔っ払った囚人に出くわすことは珍しくないとか、あまりにも手持ち無沙汰なのでみんな何かしら内職を持っていて空いた時間に仕事をし、出獄する頃には立派な職人になっているとか、塀の外の一般人と多少の交友があったり、監獄には馬やヤギなどの動物たち、勝手に住み着いた野良犬などがいて楽しくやっているところとか。むしろ現代の労働者より自由なんじゃないかと感じる点もあった。
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沢山の囚人たちが登場して覚えきれないほどだが、ドストエフスキーが実際に収監されていた時本当にこういう人がいたんだろうなと思わせるリアリティがある。面白いのはこういうところだ。たまに出来過ぎてる部分もあるけど、これも本当にあったことなのか、それともこの部分だけは創作なんだろうかと迷う余地が生まれる。セミフィクションはこういうところも面白いと思う。アリの話や傷付いた鷹の話など本当に良かった。
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投獄されていた囚人たちはむしろ教育のある人たちだったという記述がチラッと出てくる。
愚鈍で大人しく、家畜として優秀な人間だけが生存を許され、そうでない個体は投獄されたり追放されたりして社会から間引かれてきたという人類の自己家畜化の歴史が見えるようだ。それは言い過ぎか。
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最後の読書ガイドの注を流し見ている時、アレクサンドル・ソルジェニーツィンについての「反体制トロツキー主義者として金鉱のあるマガダン州コルィマの強制収容所に送られた。」という記述の中の“金鉱”の二文字が目にとまり、突如として佐渡金山のことを思い出した。
もしも江戸時代、島流しになった罪人たちに筆と紙さえ与えればこんな文学が生まれていたのかも知れない。やむを得ず罪を犯した者、冤罪で送られた者、それから本物のクズと、物語には事欠かなかっただろう。昔々、江戸時代の佐渡金山では。しかしそれはもはや永久に失われてしまった。とても残念なことだ。そこにはドラマがあったはずなのに。
ついでにwikipediaの流罪のページを見ていたらこんなことが書いてあった。
ドストエフスキーも政治犯としてオムスク監獄に送られたわけだし、教養ある政治犯のおかげで文化レベルが上がるのはロシアでも事情は同じだったのかも知れない。