『左右を哲学する』第二部〜最後まで_第5回哲学読書会
まだまだ夏の香りの残る今月初旬、第5回目となる哲学読書会を行った。範囲は『左右を哲学する』第二部〜最後まで。
今回の参加者は3名。『左右を哲学する』第二部は、対話形式だったこともあり、理解の難しい部分も多かった。なので、普段あまりしないことだが、1文1文読んで精読していく、という方法を取った。
「数的」の定義
p162以降の成田正人さんと清水さんの対話において、特に理解が難しいと感じたのは「数的」の定義だった。
Oさんの「数的に、とは、数学における指標のように、+1、-1と置くことができるという意味ではないでしょうか」という言葉をきっかけに、数学的な思考の扉が開かれた。
+1、-1のように正負の軸として想定すると、象限のy軸を鏡と見立てて理解することができる。その場合、+1も-1も同じ1には変わりないが、数的には異なっていると言えそうだ。
また、正三角形を考えてみる。正三角形を鏡に映すと、形はまったく同じに見える。しかし、各頂点にABCといった記号を振ると、現実の正三角形と虚像の正三角形は、性質的には(形としては)同形だけれども、数的には(ABC各頂点の対応的には)一致していない。
話は、これらの違いが、過去、未来の違いにも近いのではないかというところに接続する。
左右の違いと過去・未来の違いには共通点があるという。
人間が、姿形がまったく同じ完全な球体のようなものであっても、鏡に映った虚像には”数的な”違いが認められ、それが違和感として”感じ”られる。そのことから左右が発明されたとする。
過去・未来も、「机の上にコップが置いてある写真」「机の上にコップが置いていない写真」を並べたとき、どちらが過去の写真でどちらが未来の写真かわからないように、現在という中心軸から同じように1離れているに過ぎない。しかし、そこには+1、-1のような違いが”感じ”られる。(時間の流動性については一旦留保している)
確としたもののように感じられる、左右も過去・未来も、実は「なんとなく違う気がするもの」でしかないのかもしれない。私たちはそれらの、なんとなく違う気がするものを、経験によってのみ、確としたものとしているのかもしれない。
左右や過去・未来といった”概念”がそうであれば、言葉はなおさらだろう。次回からは言語への言及で有名な『ウィトゲンシュタイン入門』を扱う。そのあたりの連関も感じられると嬉しく思う。