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『左右を哲学する』第二部〜最後まで_第5回哲学読書会

まだまだ夏の香りの残る今月初旬、第5回目となる哲学読書会を行った。範囲は『左右を哲学する』第二部〜最後まで。

今回の参加者は3名。『左右を哲学する』第二部は、対話形式だったこともあり、理解の難しい部分も多かった。なので、普段あまりしないことだが、1文1文読んで精読していく、という方法を取った。


「数的」の定義

p162以降の成田正人さんと清水さんの対話において、特に理解が難しいと感じたのは「数的」の定義だった。

成田 でも、球体のように対照的な身体をしていたら、右と左の感覚が違ったとしても、現実の身体と虚像の身体とはぴったり重なり合ってしまいますよね。その場合でも、左右という概念は出てくるのでしょうか?
清水 現実の身体のまさにこの部分が、性質としては虚像の身体の対応部分と重なり合っているけれども、数的には重なり合っていない、と言いたくなるかもしれません

p166,167

Oさんの「数的に、とは、数学における指標のように、+1、-1と置くことができるという意味ではないでしょうか」という言葉をきっかけに、数学的な思考の扉が開かれた。

+1、-1のように正負の軸として想定すると、象限のy軸を鏡と見立てて理解することができる。その場合、+1も-1も同じ1には変わりないが、数的には異なっていると言えそうだ。

また、正三角形を考えてみる。正三角形を鏡に映すと、形はまったく同じに見える。しかし、各頂点にABCといった記号を振ると、現実の正三角形と虚像の正三角形は、性質的には(形としては)同形だけれども、数的には(ABC各頂点の対応的には)一致していない。

話は、これらの違いが、過去、未来の違いにも近いのではないかというところに接続する。

成田 そうすると、左右と過去・未来は似てくる気がします。
(中略)
清水 過去・未来の非対称性は、存在したということと、まだ存在していないということとの対比ですよね。過去と未来に、性質としてはまったく同じ出来事があったとしても、存在・非存在の非対称性があります。
(中略)
成田 現実のものがあって、それを鏡に映したような物は虚像なのだとすると、現実・虚像の非対称性があるわけで、そうすると、過去・未来の(引用者注:左右の?)非対称性は、存在・非存在の非対称性に似ているのでしょうか。

p169

左右の違いと過去・未来の違いには共通点があるという。

人間が、姿形がまったく同じ完全な球体のようなものであっても、鏡に映った虚像には”数的な”違いが認められ、それが違和感として”感じ”られる。そのことから左右が発明されたとする。

過去・未来も、「机の上にコップが置いてある写真」「机の上にコップが置いていない写真」を並べたとき、どちらが過去の写真でどちらが未来の写真かわからないように、現在という中心軸から同じように1離れているに過ぎない。しかし、そこには+1、-1のような違いが”感じ”られる。(時間の流動性については一旦留保している)

確としたもののように感じられる、左右も過去・未来も、実は「なんとなく違う気がするもの」でしかないのかもしれない。私たちはそれらの、なんとなく違う気がするものを、経験によってのみ、確としたものとしているのかもしれない。

左右や過去・未来といった”概念”がそうであれば、言葉はなおさらだろう。次回からは言語への言及で有名な『ウィトゲンシュタイン入門』を扱う。そのあたりの連関も感じられると嬉しく思う。

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