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愛する前にまず自分自身を目的とする_『愛するということ』から考える

エーリッヒ・フロム『愛するということ』("The Art of Loving", Erich Seligmann Fromm)について理解を深めるため、「『愛するということ』から考える」というマガジンを作り、細かくテーマを立てつつ考察を行っていく。
この試みの中で哲学的思索の射程を伸ばして、下鴨ロンドでの自主哲学読書会においても、日常での生活においても、自分自身を含んだひとびととの対話・関わりに活かせると良いなと思う。

執筆者覚書
『愛するということ』は1956年初版ということもあり、内容にいくつか誤謬が認められると考える。今までのところ、以下の点に注釈しながら読み進めている。
・当時の常識や宗教的理解に影響を受け、同性愛について「正しい愛の形ではない」という理解の誤謬がある。
・文中で用いる「母親」「父親」という語はあくまで人間的父性、母性の性質だとしながらも、男性役割、女性役割を強く感じさせる記述が多い。母親、父親、女性、男性を「人間」に置き換えて読むことで、現代において、より力のある文章となろう。

第2回テーマ:愛する前にまず自分自身を目的とする

フロムは愛することそのものについて語る前に、人類がこれまで利用してきた孤立の解消法について述べていく。

それらは過去から現在へと、祝祭的興奮状態(お祭り、乱痴気騒ぎ)から酒や麻薬、セックスへの依存、集団への同調へと語り進められていく。

現代において主に見られる消極的な孤立の解消法は「集団への同調」であると考えられるが、これはもちろん十分ではない。孤立から来る不安に対して、集団への同一化という形で対処しても十分に孤立を癒すことはできない。そして、集団への同調という対処にはひとつ大きな欠点がある。

“このように型にはまった活動の網にとらわれた人間は、以下のことを忘れてしまうーー自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスを与えられたこと、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること。”

引用:エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p34

集団への同調が極端に進むと、いわゆる「社会の歯車」的意識が強化され、自己存在が取り替え可能なものに思えてくる。そして自己内面の感覚、つまり、自らの気持ちの所在、意志の所在を見失っていく。集団に合わせることに順応しすぎてしまうために、「自分はどう思っているのか」「自分が何をしたいのか」が曖昧になっていく。上記の引用部分から述べると、”唯一無二の個人であること“を忘れてしまう。

現代のアルコール依存症や性依存症、うつ病なども、「集団への同調」という孤立への対処の不全のひとつの結果であると考えられる。

同調への抵抗手段

しかし、学校、受験、就職、社会的習慣など、種々雑多な生活場面で「集団への同調」を求められる現代日本社会において、“唯一無二の個人”であること、私が「私」であることを保って生きることには難しさもある。その時、同調への抵抗手段になる考え方のひとつとして「平等」という概念が本書では紹介されている。

“啓蒙主義哲学者たちによれば(これをもっとも明確に定式化したのはカントだが)、何びとも他人の目的達成のための手段であってはならない、平等とはすなわち、自分自身こそが目的であって、自分はけっして他人の手段ではないということである。”

引用:エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p31

ともすると日々の暮らしや仕事に追われて忘れてしまいそうになるが、私たちはひとりひとり、“自分自身こそが目的であって、自分は決して他人の手段ではない”。

社会のレールという言葉に代表される、「人はこの方向に生きていくべきだ」という(一過性の)常識に惑わされそうになるが、私たちは元来、ひとりひとり唯一無二であり、自分自身の目的を持つことができる存在である。ひとりひとりが主体である。

「集団へと同調する」「自分自身の考えを持たない」という行為は、自らを他人の手段として明け渡すことを意味する。その先にあるのは主体の喪失である。

能動的に愛するために

「愛する」ということは何よりもまず能動的な行為であり受動的な行為ではない。そうすると、主体なき人間は愛されることはできても、(本書で述べられるような形で対象を)愛することはできないだろう。これは、対人はもちろん対物、対世界でも同じことだと考える。

愛するという行為のためにはまず、主体的に生きること、自らを他人の手段に貶めず自分自身を目的として生きることが下地として求められる。そのためには、「自分が本当に何を望んでいるか」という、一見単純でしかし複雑な問いに応えていかなければならない。もちろんそれはひとりの人間の生の上にある以上一定ではない。生活の折々で、自分にとって快いものは何か、達成感を感じるものは何か、自分は何に喜び何に苦しむか、何にうつくしさを感じるのか、というひとつひとつの問いに暫定的な回答を出し、求めるものに向かって行動する必要がある。それらの問いを見つけ、応えを得ていくためには、自分を、自分自身で、できるだけ誠実に見つめていく道のりが必要になる。

自らの心の赴き

自分の本当の思いを見極めることは難しい。しかし、それは本当に難しいのだろうか?
イヤなことはイヤといい、好きなものには好きという、そのときそのとき表れる心の赴きを捉えること、私たちはいつからそれが難しくなったのだろう。
「皆が好いているものをイヤというと仲間外れにされるかも」「自分の好きを通すと浮いてしまうかも」といった恐怖は確かにある。それは孤立への恐怖である。本邦には強い同調圧力があり、それが孤立への恐怖感をさらに強めている。
私たちは各々、「私」という唯一無二の者でありながら集団への帰属を強く求めている。集団に同調している期間が長くなると、「私」を喪っていく。「自分の本当の思い」を喪い、心の赴きを感じられなくなっていく。
自らを、ひとを、空を、川を、野にある一木一草を、能動的に愛していくためには、自らの主体性を確保する必要がある。唯一無二の私である必要がある。「唯一無二」という、集団から距離を置いた私である必要がある。
もし孤立を恐れ集団に同調すれば、自らの心の赴きは曖昧になっていく。自らの思いを見極め、主体性を取り戻し、唯一無二性を高めていくと、否応なく孤立していく。だが、後者で徐々に獲得していくことのできる孤立は、不安や恐怖に苛まれる孤立(loneliness)ではなく、自らを抱き慈しむ孤高(solitude)と呼ばれるものである。そしてこの孤高の状態がまさに、自分自身を目的とする生き方といえるであろう。ひとは他者を愛する前に、まず自分自身を目的とし、自らの理解に努め、自らを愛する必要がある。

参考文献:
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011778

Photo by Tomoki Honma https://x.com/tmkhnm1986

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