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愛そのものの性質と実践_『愛するということ』から考える

エーリッヒ・フロム『愛するということ』("The Art of Loving", Erich Seligmann Fromm)について理解を深めるため、「『愛するということ』から考える」というマガジンを作り、細かくテーマを立てつつ考察を行っていく。

この試みの中で哲学的思索の射程を伸ばして、下鴨ロンドでの自主哲学読書会においても、日常での生活においても、自分自身を含んだひとびととの対話・関わりに活かせると良いなと思う。

執筆者覚書
『愛するということ』は1956年初版ということもあり、内容にいくつか誤謬が認められると考える。今までのところ、以下の点に注釈しながら読み進めている。
・当時の常識や宗教的理解に影響を受け、同性愛について「正しい愛の形ではない」という理解の誤謬がある。
・文中で用いる「母親」「父親」という語はあくまで人間的父性、母性の性質だとしながらも、男性役割、女性役割を強く感じさせる記述が多い。母親、父親、女性、男性を「人間」に置き換えて読むことで、現代において、より力のある文章となろう。

第4回テーマ:愛そのものの性質と実践

「愛」という言葉を考えたとき、何を思い浮かべるだろうか。「特定の個人に対する恋愛的感情」を思い浮かべる人もいるだろうし、「特定の個人に対する執着的感情」を思い浮かべる人もいると思う。愛に対するこうした理解は、ドラマや映画といった娯楽が示す恋愛的「愛」の姿を反映していると考えられる。しかし、上記したような特定個人に対する恋愛的・執着的感情はしばしば交換経済的な様相を呈する(例えば、私がこれだけ愛しているのだから、その分返ってこなければおかしい、など)。そして更に、「愛する」という言葉の意味が双方で異なっているために、片方が愛していると思っていても、もう一方がそれを愛と認識しないことも起こる(例えば、束縛が愛の一形態だと思っている人と、束縛は不信頼の一形態だと思っている人の関係性、など)。

愛の概念

まず、『愛するということ』で扱われる「愛」という概念は、特定個人への感情のみを意味しない。もっと広い範囲、人類愛のような範囲を扱う。そして、それが全ての愛の基礎、土台になると言う。

“愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人びとには無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。”

エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p76

自己中心主義の拡大については、先ほどの例(自分の「愛」に対する価値観を相手に押し付け、相手の価値観と思想を考慮できない姿勢)を振り返れば、分かりよいであろう。

愛の基礎、土台

フロムはまた、世界全体への愛、人類愛としての「愛」が達成されない内は、特定個人への愛も達成されないと述べる。

“ひとりの人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである。自信をもって「あなたを愛している」と言えるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはずだ。”

エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p77

つまり、自己中心主義の拡大だけでなく、「あなたと私だけが居ればそれでいい」といった狭窄的愛着も、ここでは共棲的愛着(相互依存/相互寄生的愛着)として扱われる。現代では、その類の愛着はしばしばロマンティックな愛の一形態として扱われるが、そういった愛着形態がかなりの確立で破壊的な結果に終わるのは想像に難くない(その結果が、破局という分かりやすい形でないこともある)。お互いに依存するということは、ひとりで立つことができない(「孤立(孤高)*」することができない)ということを意味している。そしてひとりで立つことができないということは、能動的に人を愛することができないということ、また、自らの人生が常に依存先の状態に左右されるということを意味する。そうなれば、自らの心理状態や人生の歩みが不安定になることは必定と言えるだろう。

(*孤立(孤高)の考察について:「愛する前にまず自分自身を目的とする_『愛するということ』から考える」参照)

愛が現れる地点

「夢中になれる誰か(対象)」を見つけた時に、愛が始まるのではない。愛は、地道に「愛する能力」を鍛えた先に見出すことができる境地なのである。

“ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思いこんでいる。それどころか「愛する」人以外は誰のことも愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ、誰もが信じている。これは先に述べたのと同じ誤りである。つまり、愛が活動であり、魂の力であることを理解していないために、正しい対象を見つけさえすれば後はひとりでにうまくいくと信じているのだ。”

エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, p76

愛の実践

もし特定個人を愛したいのであれば、まず自らを愛せなければならない。次に、普段周りにいる人を、「思想と実践」を持って、愛するよう努力していく必要がある(この時、忘れずにいたいのは、「自らを愛する状態を保ちながら行う」という点である。あなたの尊厳を毀損してくる(自らを愛する能力を傷つけてくる)人をも、身を削って愛するべきだ、ということではない)。自らと他者を愛する実践から歩み進んで、草木や川、空、お気に入りの食器や絵画、音楽などの存在やうつくしさを、心全体を持って受け取ろうとすることもまた肝要だと考える。これは、瞑想やマインドフルネスなどに共通する思想だが、心を全体なにかに集中させるという行為によって湧き上がってくる感情、感覚がある。繰り返しの実践によってその感覚に触れることは、「愛すること」において重要なものだと感じる。その行為によって生じる感覚が愛そのものかどうかは、私にはまだ分からない。だが、少なくとも「愛する能力」に資する感覚であることには確信がある。なぜなら、対象を大切にすること(対象を尊重すること、愛すること)は、関わりの際に「対象に心を集中する」「自らの意識の中心に対象のみを載せようとする」ことだからである。

そのように、①自ら、②周囲の他者、③自然や事物を愛する能力を、実践を以って鍛えることができてはじめて、ひとりで立つことができ、愛する能力も鍛えられ、誰かを「能動的に」愛することもできるようになるのではないだろうか。「実践を以って」というのはもちろん、「愛していると内心で念ずること」でも「自らの愛の形を人に押し付けること」でもない。愛することの実践には「自らに嘘をつかないことの延長線上として他者に嘘をつかない」「お互いに(特に相手が)安心して話せるよう、声色、目線、表情などに気を配る」「相手がリラックスできるように、まず自分がリラックスする、穏やかさを保つ」「相手が持っている世界観、言語感覚などに思いを馳せ、伝わる共通言語を考える」といったことが例として挙げられると思う。また「他者の尊厳を傷つけない(外見・性格の揶揄、思いや価値観の否定をしない)」「内心の領域を許可なく跨がない(プライバシーや言いたくないことに踏み入らない)」といったことも、愛の前提条件である「尊重」の実践として挙げられるであろう。

そうして考えると「特定個人を愛する能力」は簡単に手にすることのできるものではなさそうだ。思うに特定個人への愛の多くは、愛と愛でない状態を揺れ動いている。他の愛に比べて心的距離が近くなりやすい性質から、自己の主観や価値観が了解なしに越境しやすく、相手の主観や価値観を毀損しやすい。それゆえ特定個人への愛は他の愛に比べても不安定性が高い。また、自らへの愛、周囲の人たちへの愛、自然・事物への愛ほど、実践の機会も多くない。「愛」といったとき現代人はすぐに「特定個人への愛」を想起するが、特定個人への愛を達成するためには、それ以前に実践するべき「自らを、周囲の人たちを、自然・事物を愛する能力」を養った方がいい。そうすることで、特定個人への愛も含む、すべての愛の土台を固めることができるのだろう。

参考文献:
エーリッヒ・フロム著, 鈴木晶訳, 『愛するということ』紀伊国屋書店, 2020年, https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011778

Photo by Nika Nishimura(旧堂本印象邸に於て、京都モダン建築祭にて)
https://www.instagram.com/nikawwjd/
京都モダン建築祭
https://kyoto.kenchikusai.jp/?fbclid=PAZXh0bgNhZW0CMTEAAaaDcCXJNywKyMO8d3AlEHdGs_q4LO3fa2hQiUOgyhleeEQgKbODfLZW3kg_aem_63z3RIlHv_1J_84QqavAyA


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