「2020(36歳)」

2020年代という新たな10年が始まった。
2020という数字はキャッチーでそれだけでワクワクしたし、東京オリンピックに付随して、どれだけ東京が盛り上がるのか楽しみだった。
自分のよく遊びに行くクラブも凄く盛り上がるのだろうかと思っていた。


やっと曲が作れるようになり3年ぶりに発表するアルバム作りも佳境を迎えて、島で思い描いていた「ライヴに行きつつも、自分の音楽活動も両立させる事」が実現しつつあった2月。
未知なるウィルスが流行り始め、ライヴハウスやライヴで感染したというニュースが流れ、一気にライヴやライヴハウスが批判の対象となった。


2月の上旬では、まだ通常通り何の問題もなくライヴは行われていたのに下旬くらいから一気に状況が激変した。
2月の終わりに組まれていたライヴは、当日や翌日にも関わらず急遽殆どが中止や延期になってしまった。


ライヴを愛する人間として凄く心苦しかった。
翌日のライヴが急遽無くなってしまった事の悲嘆の声も沢山みた。
俺は何とか対策を取ってでもライヴを行って欲しいと最後まで思っていたし、3/13までノーマスクでクラブに行っていた。
俺はライヴがあったからこそ生きてこれた。
ライヴの素晴らしさを知らなければ、2003年辺りで俺はこの世からいなくなっていたと言い切れる。
どんな状況になろうとも、音楽イベントは消えてしまってはいけないと思っていた。



3月の下旬くらいには遂に全ての音楽イベントが全滅した。
マスク嫌いでマスクをする事は特定の機会にしかしなかったが俺もマスクをするようになった。
マスクをする事に変なプライドなんか持つ必要はないと思えたし、自分の為であり当時の空気感としてマスクをしていた方が誰かにストレスを与えなくなるだろうと思ったからだ。



2011年の震災の時の計画停電の時を思い出して、震災の時は1ヶ月もすればだいぶ生活は元に戻ったが、今回はどれくらいで戻るのだろうか。
海外ではあっという間に感染が広まり、ウィルスによる死者が大量に出ているのでロックダウンしているという情報が入る。
日本もこうならないうちに早く社会の動きを止めた方が良いという危機感溢れる声が大きくなっていった。
YOSHIKIさんが安倍元総理にTwitterで直接危機感を煽る衝撃的な非常事態だった。



それでも日本の政府は中々迅速な対応をせず、「マスクを2枚送る」や「お肉券」などで呆れ返った声が溢れた。
この時、政府と国民の認識と価値観に大きく相違があると感じた。
マスメディアは連日、感染者が増えている事を水を得た魚のように煽り立てる。



この時に俺は分かった。
日本がストレスに塗れていて、暗い雰囲気を中々抜け出せないのは政府とマスメディアが主な原因だったんだ。
政府は自分たちの地位が何よりも大事な事が露わになり、マスメディアはストレスを煽る事が何よりも大事である事が露わになった。
そのストレスを解消させる為に、自分には本当は必要のないものにまで金を使わせようとするのだ。
そりゃあ世の中、良い雰囲気にはならないよな。わざとそんな雰囲気を作るようにしていたんだな。と腑に落ちた。
勿論、自分を含めた人々の無意識のエゴから悪い雰囲気が作り出されているというのもあるだろう。


世の中はそれで回っている。
正に地獄ではないか。
だけどその地獄の主な原因がこの期によりハッキリと分かったのは凄く良かった。
分かれば後は自分がどう心掛けて生きていけば良いのかがよりハッキリしたからだ。



4月に入り、日本もやっと緊急事態宣言を発令する事となった。
しかし俺の就いていた仕事は休みになる事もテレワークになる事も全くなかった。
自分の仕事が止まったら、命に関わる人がいるのかは微妙なラインではあったが、世界的に猛威を奮っているのだから何とかして欲しいという気持ちはあったが、特に何も変わらなかった事に不信感を抱いた。
この会社は人命よりも金なのか?
とはいえ収入が減る事がなかったのは良かったが。



そんな最低な状況の中での気晴らしは曲作りだった。
ウィルス騒動を受けて、作っていたアルバムに収録する曲を少し変えた。
狂命でライヴ活動を行っていた時に何回か演奏した2008年に作った「不幸がやってくる」
生きていれば必ず不幸になる可能性から逃れる事は出来ないという曲だ。
ウィルス騒動が起きて、あっという間に不幸な世の中になった時、この曲で俺が表現したまんまだと思い、当時の感性で作り変えた。


こんな世の中で自分が死んでも悲しまないで自由に解放されたんだと喜んでくれという遺書めいた「葬式パーティー」という曲も作り、3年ぶりのアルバム「全身全霊自己満足」を4月の終わりくらいに発表した。
自己満足とは決して適当にやる事じゃない。
全身全霊で命懸けでやる事なんだという、俺の音楽をやるアティテュードを現している。


台詞が入ったものも完全なインストもあり、当時としては手応えはあったがまだまだ最初を掴みきっただけに過ぎない感じなので全体的な出来には余り満足していないが、自分なりにアフロビートを昇華できた「神に幸あれ」は好きだ。



アルバムを発表してから、すぐにまた曲を作り始めた。
こんな最低最悪な状況だけあって、すぐに2曲を作れて発表した。
当時の状況をありのままに描いた「コロリンピック」
この騒動が終わったら思い切り親密に愛し合おうという収束を願った「夜明けに濃厚接触しよう」
「夜明けに濃厚接触しよう」は自分の代表作レベルの曲が出来た!と初めて思えたし、今でもかなり気に入っている曲だ。



5月は緊急事態宣言の真っ只中。
ガラガラの通勤電車に乗って仕事に行った。
いつかライヴに行けた日には感動しまくるんだろうなと思うようになり、曲も作れるようになっていたので、その日を夢みて生きていこうと思えた。
この時期から曲を作れるようになっていて本当に良かった。
曲を作って当時の気持ちを浄化できていたからこそ自分を保てたと思える。



6月からは無観客ライヴが始まるようになった。
ライヴとは名乗っているが音楽番組みたいなもので、見終わった時は良かったとなるが終わった後の心地良い疲労感も次の日の余韻もなかった。



7月に新木場にあったageHaの野外の音楽イベントに行った。
4ヶ月ぶりとはいえ、かなり久々な感覚だった。
やはり生で音楽を体感する事は良かったと思えたが、まだ始まったばかりなので感染しないかの不安も大きかったのは悲しい気持ちにもなった。



その後すぐだった。
会社の全体周知で「人の集まる場所に行ってはいけない。」というものがあり、「会食、カラオケ、ライヴなどに行く事を禁止する。」といった内容だった。
会社が人の人生に踏み入れるのは流石に一線を超えているのではないかと反論したら「要は感染さえしなければ良い。」との事だった。


いよいよ世の中がおかしくなり始めたと俺はこの時、酷く絶望してドン底に落ちた気分になった。
本来なら東京オリンピックで盛り上がったであろう7月の4連休。
大雨が降りしきる中、本来は大会場でのライヴが予定されていたDIR EN GREYのストリーミングを真っ暗な気持ちで聴いていた。


ライヴ映像を見ると、もうこの時には戻れないのかと悲しみでいっぱいになり、無観客ライヴを見ても本当はここで沢山の人と楽しめたはずなのに何でこんな事になってしまったんだと悲しい気持ちの方が大きくなってしまい、無観客ライヴは夏以降は避けるようになった。
今まで過去の方が良かったと思った事はなかった。
だけどこの時期だけは過去が羨ましくて仕方なかった。
過去が今を超えられない事が悔しくて仕方なかった。



もう世の中は俺が生きていく世界ではないのではなくなったのではないか?
いよいよ自分が現実に見切りをつける時が来たんじゃないか?
18歳で社会に出て、自分の思い描いている理想は無い事を知った。
それでも音楽とライヴの素晴らしさを知り、ここまで生きてきた。
そのライヴが無くなってしまい人が集まる事を悪とされる、つまらない世の中になってしまった世の中で生きる意味なんてあるのか?


俺は死にたいと思った事は何度もある。
だが遺書は書いた事はなかった。
ここから生き延びる事が考えられなくなり初めて遺書を書いた。
「恐竜が絶滅した時のように、生きれなくなった命が消える事は自然の摂理だ。」みたいな内容だったと思う。
もう耐えきれなくなったら、いつでも死ねる状況を作ろうと思ったのでまずは遺書を書いた。


全く光が無い生活の中、ウィルス騒動が起きてから俺が好きな人たちの中で初めてライヴをやってくれたのが当時好きだった=LOVEだった。
半分のキャパという事で当たる訳が無いだろうと思い、ダメ元な気持ちでエントリーしたら全員が当選していたと思う。
それだけライヴに行く事を躊躇う人が当時は多かったのだ。



俺と同じように会社から禁止されたから行かないという人もいたかも知れない。
しかし、俺はライヴに行かなきゃ生きていけないような人間だ。
もし会社がプライベートをこれ以上模索したりしたら、その時点で会社は辞めてやる。
もしウィルスに感染したら、電車で感染したかも知れないとでも言えば良いんだ。



行くなと言われて行くのは気持ちの良い事ではない。
だがこれは譲る事は出来なかった。
当然だ。俺は会社の為に生きてる訳ではない。
自分の人生の為に生きている。
雇われていて給料を貰う以上、責任を持って仕事はやるが、自分の人生に於いては誰にも口出しはさせない。
ライヴに行く事は俺の信念だ。



9/6。ライヴ当日ならではのワクワク感は凄く久しぶりだった。
会場の横浜の空には虹が架かっていた。 

物販もなく、マスクをして着席で声を上げてはいけないという未知なる状況の中でライヴは始まった。



盛り上がる事が出来ないライヴは楽しむ事が出来るのか?と思っていたが、8ヶ月ぶりに見るライヴは、まるで5年ぶりのような感覚だった。
実際に見られる事がこんなにも尊い事だったのかと、今までになった事のない気持ちになった。
それを会場全体から感じて、あんな雰囲気のライヴは恐らく後にも先にもないだろう。
途中でメンバーが感激の余り泣いて歌えなくなる場面もあったが、見る側も全く同じ気持ちだった。


声を出せなくて見ている事しか許されない状況は、よりステージを集中して色んな事を感じる事が出来て、思ったより物足りなさもなく、これはこれでかなり楽しめた。



3月くらいから、暗く狭い下水管の中にずっと閉じ込められていたような気持ちだったが、このライヴで気持ちの流れが一気に変わった。
下水管の中から出られたような気分になり、今はこういう形でも良いからもっとライヴをやって欲しいと思えた。
これくらい徹底していれば感染が広まる事は無いとも思えた。


それからは感染対策を取った上でのライヴが次々と発表されるようになり、何本か行く事が出来た。
その時に思ったのが「俺はこの生涯でライヴ以上の幸せを見つける事は出来ないんだ。」という事だった。
ライヴの為に色んな事を頑張りながら、その日を目標にして生き、前日からワクワクドキドキして、当日は1日が特別な日となり、実際に音を体感して沢山の人と共鳴する時間は奇跡そのものだ。


ライヴが終われば、その余韻を持ち帰って幸せな気持ちで眠りに就いて、ずっと残る思い出となりまた次のライヴへ向かって生きてゆく。
掛け替えのない尊い催しなのだ。
ライヴというものに深く感動出来る心を持っていて本当に良かったと思えた。



次のライヴへ行く為にも、感染したくないとより心掛けるようになった。
感染が広まる原因と悪口を叩かれたライヴが、逆に感染意識を高める事になるという何とも皮肉なものだ。
世の中の風潮とは浅はかなものだ。



健康は大事だ。
俺も自分なりに健康にはある程度は気を使っている。
同じものばかり食べないようにしているし、煙草も吸わなければ普段は一切酒を飲まない。
なので健康はかなり維持できているし、持病もなければ花粉症もなく、裸眼で難なく生活を送れている。
大好きな葱類を食べると鼻水が出る意外は体にはかなり恵まれている。
だが健康なだけでは生きる意味は見出せない。
健康でいる理由は自分の好きな事を最大限に楽しむ為だ。



秋は感染状況がマシになったが、年末が近くなると再び感染者が増えたと執拗にマスメディアは煽り立てるようなった。
感染状況は気になった時に自分で調べれば良いし、ストレス煽りの恰好のネタとなるウィルスを利用して雰囲気を悪くするやり方に嫌悪感を抱いていたからトレンドやニュースは一切見ないようにしていた。



年末にはLUNA SEAのライヴがあった。
大きな悲劇となった2020年を希望がある感じで締めくくりたい。
会場に着いていたものの開場が遅れ、30分後くらいに真矢さんが陽性だったため、ライヴが延期になる事が発表された。
自分に関係のある人が初めて感染した。
希望への扉は開く事はなかった。
この日以降、ライヴが無事に開場して扉が開くと安心を覚えるようになった。



立ち尽くす者、泣く者。
現地は悲劇と不安が渦巻いていた。
俺は何とも言えない気持ちで帰路に就いた。


まずは真矢さんが無事に回復して欲しいと心配になったが、折角ライヴも戻り始め、良い感じになってきていたのに2020年は非常に気持ちの悪い終わりとなってしまった。
悪いのは真矢さんではない。ウィルスだ。



無観客で行われた紅白歌合戦はデストピアそのものだった。
最低最悪なデストピアな1年だったが、色んな事に気付けて成長できた年でもあったので悪い事ばかりではなかったと思えた。


こんな状況でもライヴが戻ってきたなら、生きていけるかも知れない。
そう思った俺はiPhoneにメモしていた人生初の遺書を大晦日に削除した。


もう元には戻らないと言っているヤツもいるが未来はどうなるか分からない。
だったらまた当たり前のようにライヴが最大限に楽しめる未来を思い描いた方が良い。
2021年は少しでもそんな未来へ近付ければ良いと願った。
自分は変にネガティヴにならず、誰かをガッカリさせるような気持ちになるような事はしないようにしようと決意した。

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