次回の「 #サイバーバカ異世界 」の告知と、前回の振り返り。
今度のサイバーバカ異世界のツイキャス配信は10・22月曜日の21時からです。テーマは「未来のエネルギー」について。どうなるんだろう。
自分用の予習として収録した音声はこちらからどうぞ。
https://radiotalk.jp/talk/75081
で、以下は前回「未来の性愛」についての振り返り。
対談相手の輝井さん(以下、テリーさん)と話していて最初に話題にしたのは、未来の性愛における暴力の問題。
■暴力について ドールとアート
性愛に関する技術革新で最近注目されているラブドールやセクサロイド(セックスロボット)について、以下のニュースを取り上げました。
AIが搭載されたラブドール(上記の記事ではダッチワイフと書かれています)「サマンサ」が、2017年にオーストリアで開催されたとあるイベントに出展された際に来場者から乱暴をされてボロボロにされるという痛ましい事件を受けて、開発者が人間のパートナーがサマンサに対して非人間的な態度だった場合にはパートナーを無視する「ダミーモード」を組み込んだ、という話です。
ツイキャスでは、ダミーモードを楽しむユーザーが必ず現れるだろうという話をしました。また、これに関連してロシアやスペインで既に人工頭脳ラブドールが接客するラブホテルが開業するというニュースも紹介しました。
https://jp.sputniknews.com/life/201804204804123/
性愛についてはかねてより、「性的な相手を人形のように扱う」ということの是非が議論されてきた経緯があります。近代哲学の父と言われるデカルトが晩年に、夭折した娘を模した人形を所持していたという話は、その真偽はさておき有名です。デカルトのエピソードはいわゆる「性愛」ではないのですが、広義の愛情を考えるにあたっては無視できないものでしょう。
サマンサの開発者が、くだんの事件の際に「サマンサは玩具じゃない!」と叫んだという記述がありましたが、玩具ならば乱暴に扱っていいというものでもありません。映画『トイストーリー』や『くまのプーさん』など、玩具とのコミュニケーションや玩具どうしのコミュニケーションを描いた物語はときに人の胸を打つのです。
他方で、社会的に許されるならばたとえ相手が生身の人間であっても非人道的な行いに及ぶ人がいるということを思い起こしてください。サマンサ事件で思い出したのは、20世紀のパフォーマンス・アートで自らの身体を「好きにしていい」という挑戦をしたアブラモビッチのことです。
http://www.imishin.jp/marina-abramovic2/
これはいわゆる現代アートの文脈の話でしたが、同様の構造はかつてのナチス・ドイツにおけるユダヤ人収容所でおこなわれたことにも共通すると言えるでしょう。しばしば狂気と呼ばれる収容所での残虐行為を、人間の心理に潜む傾向として一定の割合で一般化して見出す「アイヒマンテスト」あるいは「ミルグラム実験」と呼ばれる実験があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93
権威ある立場で促されたとき、人は相手が生身の人間で、苦しんでいるように見えても加虐行為を止めない、少なくとも「加虐行為を止めない人が多い」という話は、上掲のアブラモビッチやサマンサの例に照らしてみると、否定できないリアリティがあります。
これは最近ますます問題視されているヘイトスピーチやブラック企業でのセクハラ・パワハラという現象の根元に、心理的に無視しがたく存在している残酷な傾向があるという話です。
サマンサ事件とアブラモビッチ、そしてアイヒマンテストを踏まえると、かつて日本の現代美術において大問題とされたカオスラウンジの踏み絵事件というものがあったことを思い出します。アニメのキャラクターが描かれた「グラビア」を来場者に踏ませる、という悪質な悪ふざけとも思われるインスタレーションです。この種の「悪質」「悪ふざけ」ととられかねない作品は、村上隆がかつて生きた犬を展示場内に繋いで「展示」したことや、やはり犬の死体を腐乱させる過程を「展示」したアーティストがいたことなど、ある種のスタイルとして認められて来たと言うことは可能です。
現代美術を含む現代の文化がその一部としてしまってきたスキャンダリズムは最近になって反省する動きも目立つようになってきています。それについては本稿では深入りすることを避けて、カオスラウンジの踏み絵問題に再び戻りましょう。彼らの「作品」で踏まれていたのは、先述のとおりアニメのキャラクターの「グラビア」でした。
なぜ、非実在であるはずのアニメのキャラクターを「踏む」ことが問題になるのでしょうか。その絵を描いた人たちへの冒涜だから、という側面は確かにあるでしょう。また、あの「踏む」行為はアニメを愛するファンコミュニティへの冒涜にもなっていた筈です。かつて「踏み絵」がキリスト教の信者とそうでない者を見分ける方法として機能したように(ここにはさらに複雑な構造がありますが、それについてもここでは深入りしません)。
カオスラウンジの踏み絵問題は、アニメのキャラクターのグラビアを踏むというよりも、「キャラクターそのもの」を踏む行為として捉えられたからこそスキャンダルになった、のではないでしょうか。非実在のキャラクターであっても、その「人権」のようなものを尊重するべきである、という感覚があのスキャンダルの根底にはあったのではないか、ということです。
なぜ、最近では話題にする人も減ったように見える過去の事件をこんなに長々と書いているかというと、最近ツイッターで議論されているシュナムルというアカウントのラノベの表紙問題がこれに関連してくると考えるからです。
女性キャラクターの性的に露骨な表現が書店の一般棚に並べられ、子供の目につくという問題(これもこれでまた深く複雑な問題の絡み合いがあるわけですが、やはり割愛します)。性的な姿は秘められるべきであるという考え方があり、それを非実在のキャラクターにまで適用させようとする人々と、表現の自由を守ろうとする人々とが議論を戦わせているように見えます。
だいぶ脱線しているように思われるかもしれませんが、いわゆる3次元の存在であるからといって、サマンサが人間として存在しているのかどうかは、ややギリギリのところにあります。世の中には実在の人間の性的な姿が消費の対象として流通してもいて、その是非からしていまだ議論されているわけですが。セックスワーカーと呼ばれる仕事や、それに準じる行為の問題は、技術革新に伴ってこれまでも大いに複雑化してきたわけです。サマンサに搭載されるようなAIと、VRアダルトアニメゲームとが組み合わされることを考えると、あながち単なる脱線ではないということが理解してもらえるのではないでしょうか。映画『HER』やマンガ『ルサンチマン』、そしてこれもツイッターで話題になった『BORN SEXY YESTERDAY』という動画に関連する話題です。
なお、これについてはセクサロイドと女性問題を組み合わせて論じる次のような記事もありました(現時点では、僕はこの記事の書き手の意見を支持していません)。
http://ketudan.hatenablog.com/entry/2018/01/07/150937
■生殖について 社会の再生産
さて、聖愛の未来を考えるときに避けては通れないのは暴力の問題だけではありません。産まれる側が何の同意もなく産まれ、また産む方も産まれてくる子を選ぶことができないという点でかなりシビアに暴力でもある、と言うことはできるのですが、性愛と結び付けられる諸々のなかで最も大きなもののひとつと言えるのが「生殖」です。
生殖は、人間社会を存続させていく上で欠かせない行為だと言われ、また多くの人たちにとっては生きる喜びの最たるものであり、またおそらくかなり多くの人にとっては不幸の根源的な原因でもあります。現代では人工授精やバースコントロールによって医学的に操作する可能性が模索されており、未来の社会では遺伝子工学も進歩するでしょうし、無視することのできないテーマです。
そもそも男女をセットにするヘテロセクシャリティは、いわゆる両親が子供を育てるべきだという考えのもとで育まれるものです。養子縁組やベビーシッター制度、あるいは社会集団での子育てが充分に発達しているところでは、生殖を前提にした異性間カップル以外の組み合わせが「許容」されてしかるべきことと考えられるのではないでしょうか。
いま敢えて許容と書きましたが、そもそも禁止されるべきものとしてヘテロセクシャル以外を捉えなければ、単なる選択肢としてカウントされると考えることもできるでしょう。
では、誰がヘテロセクシャル以外を禁止するべきだと考え、誰がそれを許容しなければならないものだと考えるのでしょうか。それは社会の存続に危機意識を抱き、人々がヘテロセクシャル以外の性愛を生きることを規制しなければ社会が崩壊すると考える人たちです。
これもまた昨今の巷を騒がせている「生産性」発言の杉田水脈議員とその支持者たちは「子供を産み育てること」を人の道だと考え、そうしない人々を逸脱者として見るでしょう。彼らにとって逸脱者は、仕方なく脱落している者か、生産性を唾棄する敵か、社会の危機に気づかない愚か者たち、ということになるのです。上記の「暴力」の項でも書いたアイヒマンテストの傾向が、ここでは社会の持続性や発展のために加速させられることになります。
未来の性愛について考える際には、技術発展にともなって自由度が増す多様性に対して、生殖に繋がる生身の人間どうしの性愛以外への風当たりが強くなる可能性も考えなければならないでしょう。
ツイキャスの相方であるテリーさんが2016年にオンラインで発表した短編SF小説『恋愛結婚禁止法』は、社会の存続のためには家庭の安定が必要であるという考えのもとに、婚姻内の恋愛を「不倫」と呼び、婚外の恋愛を推奨するという、現在の常識からするとかなりねじれた設定を採用しています。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881110591
恋愛の存続に対するかなり屈折した作者の思想が反映されていて非常に面白いのですが、この『恋愛結婚禁止法』の作中でも「両親」がつがうことで子作りはなされる、という設定になっています。これは「恋愛結婚は近代に西欧から輸入されたものであり、近代以前の日本では恋愛と結婚は結びついていなかった」という説と関係しています。
テリーさんの『恋愛結婚禁止法』とほぼ同時期に書かれた村田沙耶香『消滅世界』は、婚姻内の性行為を「近親相姦」と呼ぶ世界が舞台になります。そもそも性行為が「交尾」と呼ばれる前時代的なものとされ、生殖は人工授精で行われるのが一般的になっている世界です。
そこで主人公は、反時代的な恋愛観・反時代的な生殖観に固執する母親が「交尾」によって作り産んだ女性として描かれます。彼女は、自分が交尾によって作られたことを学校の先生に話してしまったことがきっかけで学校で差別的なことを言われたりするようになります。
『消滅世界』の作中では、さらに進んだ社会実験として、千葉県が自治体として「子育て」をするエデンという計画が始まります。主人公とその夫は、結婚すら禁止されるエデンに移住して敢えて「家族」を作ろうというこれまたねじれた試みに挑みます。単なる設定だけで読ませる物語ではなく、何重にも価値観が反転しそうになる構成です。詳しくはぜひ作品を読んでみてください。
■恋愛について
性愛にまつわる問題を構成するのは暴力と生殖、そして恋愛なのではないか、というのが僕の見立てです。恋愛とするか快楽とするべきか迷ったのですが、快楽は暴力にも直接的に結びつくので避けました。
恋愛は、手紙なら恋文の文化に、電話ならテレフォンセックスやダイヤルQ2、そしてインターネットによってチャットセックスや出会い系が生まれたように、技術と深く結びついてきました。20世紀の哲学者ジャック・デリダの『絵葉書』は僕が特に好きな本なのですが、そのデリダ研究でデビューした批評家の東浩紀は『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』でシェリー・タークルのチャットセックスの研究を取り上げています。
ツイキャスではテリーさんと.AIを搭載したセックスロボットとの恋愛という話題にフォーカスし過ぎてしまった気がして反省しているのですが、出合い系のサービスの一環としてテレプレゼンスによる遠距離性行為みたいなことも可能になると思われます。そのテレプレゼンス性交の相手が果たして本当に人間なのか、ということを考えると、やはりAIとの、あるいはいわゆる非実在の恋人という問題になってくるわけですが。
ツイキャスではもっと色々と話したのですが、今日はここら辺で筆を置きたいと思います。
■■配信のログ
前回のnoteでは、配信した際の録音と、オンラインの無料サービスでの無理やりな文字起こしを公開しています。
https://note.mu/nnnnnnnnnnn/n/n7f4b9e8f7da0