「原因不明を患う」ということ
私の今の研究テーマでもあり、実体験でもある問題です。
「原因不明を患う」ってどういうことか。「病名のない人」が直面するものとは?
「原因不明を患う」≠「原因不明の病気になる」
自分が「原因不明を患う」まで、医学はとても発展しているものだと思っていました。そして、福祉も。
病院に行けば、何か検査をして病名がつく。たとえ原因がわからない病気でも、根本的な治療法がなくても、今ある症状を何かしら和らげてくれる。
福祉に助けを求めれば、困っているこの状況に手を差し伸べてくれる。そう思っていました。
でも、私には、確かに生活に支障がでるほどの症状があるのに、今までの生活を送れなくなるほどの障害があるのに、「患者にも障害者にもなれない時期」があった。
病気になったら患者になる、障害を持ったら障がい者になる。
社会の仕組みはそうではなかったのです。
確かに、医学の発展は目覚ましいです。でも、分からないこともたくさんあると知りました。そして、分からないものに対しての対応があまり進んでいないと感じてきました。
世の中には、「原因不明の病気」がたくさんあります。難病と呼ばれる疾患たちは、これです。でも、私が発症からの数年間、患っていたものは違った。病名がない、病気なのかも分からない。言葉にするなら「原因不明を患う」としか言いようがないもの。日本語としておかしいけれども。(〈難病の定義〉や〈病いと病気の違い〉についてはまた今度)
検査をしても身体に異常が見つからない。かといって、精神科に紹介されることもない。私は患者ではないらしい。でも、健康でも絶対にない。私は何と闘っているんだろう?
身体がうまく動かなくて、杖や車椅子が必要だけれど、身体も心も病気ではない私は、障害があるとは言えないらしい。じゃあ、私の生活を阻んでいるこの不自由さは一体何?
この頃の私は、「健常者でも、患者でも、障がい者でもない」と社会から言われているように感じていました。
「対象になれない人」
病名のない患者は、自分をどう説明すれば良いのか悩みます。そして、病名がないと、社会福祉や様々な配慮の対象となる「障がい者」としても、なかなか認識してもらえません。本当はそんなことあってはならないんだけど。
“障害の社会モデル” という言葉を知らない人は、福祉の分野にはいないでしょう。そのくらい当たり前に知られている概念です。(〈社会モデル〉についてはまた今度)
でも、現場レベルで言えば、福祉の世界でも「医学モデルの壁」にぶつかって、動けなくなることがたくさんあります。学問や研究と、制度の仕組みや現場と。その間には、どうしてもギャップが生じている。「だから仕方ない…」とは、当事者になるとどうしても思えないのです。
医療で言えば治療、福祉で言えばサービス。
それらの対応できるものがないからと言って、必要ないわけではありません。原因が分からなくても、病名が見つからなくても、症状が辛い。症状や障害のために、日常生活や社会生活にたくさんの影響が出てる。
それなのに、助けを求める時に自分を説明する言葉がない。
この苦しさは、想像以上のものでした。あの時の私を分類するなら、多分「いろんなものの対象になれない人」。これ以上の言葉が見つかりません。間違いなく患者なんだけど、間違いなく障害を抱えているんだけど、医療機関や行政からはそう捉えてもらえない。
「原因不明を患うこと」は「対象になれない人」への入り口
「原因不明を患う」ことは、「対象になれない人」になることとつながっていました。しかもその後、検査で異常が見つかり、病名が付いた私は、医療機関や行政からも「難病患者」と「障がい者」の両方から捉えられることとなるのです。私が抱えているものは変わっていないのに。
苦しさや辛さの大元になっている、症状や障害の原因は病気そのものだけれど、そこに意味や変化を与えているのは、社会環境の影響が大きかったです。
この社会には、いろんなものの「対象になれないひと」たちがたくさんいます。そのことをまずは知ってほしい。そして、その人たちの声をかき消したり、ましてやバッシングなんてしないでほしい。そう、心から思います。もっと分からないものを受け入れられる社会になって欲しいです。
まとめ
*「原因不明を患う」と、いろんな制度や仕組みの対象になることが難しい。つまり、制度の谷間に落ちることにつながりやすい。
*「患うこと」や「障害を抱えること」に意味や変化をもたらしているのは、社会のあり方。
…(また今度)が多すぎました。これからもどんどん増えていきそうです笑
三日坊主の私が続けるには、次の話題が見えていていいかも?!