アラブ諸国とイスラエルの若者が演奏する楽団「西東詩集」 ー 日本ゆかりのコンサート
2005年8月21日、パレスチナの事実上の首都ラマッラにある文化施設Cultural Palaceにて、イスラエル人とパレスチナ人含むアラブ諸国の若者が協働する管弦楽団The West-Eastern Divan Orchestraのコンサートが開催された。先日BBC Radio 3にてその演奏が放送された。
番組中、会場のCultural Palaceは「日本人が建てた」と言及されていたので調べたところ、日本政府の拠出金で建設され2004年に完成した施設だと分かった(国連サイト参考)。日本がこういった形でパレスチナの文化に貢献しているのは喜ばしい。
このWest-Eastern Divan Orchestraという楽団が今年25周年を迎えるに当たって、BBCラジオのクラシックチャンネルでは6回のエピソードから成る特集番組が放送された。以下のページからそれぞれ期間限定で聴取できる。
West-Eastern Divan Orchestraとは、アメリカで教鞭を取りながら祖国の問題を世界に問うてきたパレスチナ人の学者、エドワード・サイードと、アルゼンチン出身のロシア系ユダヤ人で世界的音楽家・指揮者であるダニエル・バレンボイムが1999年に共同で立ち上げた楽団である。
楽団名は、晩年、中東の詩から影響を受けたゲーテがドイツ語で書き上げた「西東詩集(せいとうししゅう/原題 West-östlicher Divan)」にちなんでいる(日本語の翻訳版も出版されているが、英語の翻訳版はインターネット・アーカイヴとして閲覧・ダウンロードできる)。ゲーテは西洋の知識人のなかでも中東の文化にいち早く注目した先駆者で、60代になってアラビア語も学習したという。現代思想の研究者が中東の文化や学問が西洋の学術界では軽んじられていると訴えるのを聞いたことがある。今日の私たちもゲーテの姿勢を見習うべきかもしれない。
以下、6回のシリーズで特に印象的だった部分を引用したい。個人的関心の覚書のような形になるので、偏りがあることをお断りしておく。
Sowing Seeds for an Orchestra オーケストラのために種を植える
エドワード・サイードの妻、マリアム・サイードによると、同氏は学問の道に進む前は音楽家を志していたほど音楽に対する情熱は強かったらしい。サイードとバレンボイムの出会いは偶然だったが、ふたりは音楽以外にも共通点があった。ふたりとも「それぞれの分野でとてもよく知られているし、祖国を離れて別の地で人生を歩んできた」とマリアム・サイードは指摘する。そんななか彼らは友情を育んだ。
サイードはそのときのことを以下のように語る。
バレンボイムがアンコールで演奏したその曲はショパンのNocturne in F sharp major, Op.15 no.2。番組内でも流れる。
以下はふたりの対話である。
バレンボイムはオーケストラの設立について次のように振り返る。
このエピソードでは、サイードのいとこの孫であるカリーム・サイードについても言及される。彼は10歳で楽団に参加し、後にオーケストラで定期的にソロを務めるピアニストになった。番組では彼によるショパンのNocturne No. 5 in F-Sharp Major, Op. 15 No. 2の演奏を聞くことができる。
How to bring a dream to life 夢を実現する方法
マリアム・サイードは楽団設立当初のことを次のように語る。
しかしオーケストラが活動を始めてから、パレスチナとイスラエルの双方に、サイードとバレンボイムのコンセプトに反対意見を表明する者もいた。このエピソードには実際にそういった声が収録されており、「銃弾の音がある間も音楽を聞くことができるのか」と問いかける者や、「イスラエルのセキュリティーが危険に晒されている」と憂慮し「武器を誤って使いすぎているのはアラブ側ではないか」と主張する男性も確認できる。彼は今、現状をどう捉えているだろうか。書籍やメディアでそういった意見を見聞きすることもあるが、実際にこのような「声」があることを改めて知る機会となった。
同時に、プロジェクトが若手の育成という重要な役割を担っているのは確かである。バレンボイムはパレスチナ人とイスラエル人の若手だけで小さな室内楽団を編成するためのワークショップを行い、後に彼らはオーケストラでも演奏するようになった。
より具体的な例を挙げたい。ナザレ出身のパレスチナ人、イェメン・サーディはバレンボイムのチームに発掘された音楽家(ヴァイオリニスト)のひとりである。彼は11歳から当楽団に参加している。このエピソードは彼が演奏するプーランクのSonata for Violin and Piano, 3rd Movement: Presto Tragicoという楽曲を含む。
Creating a dialogue 対話を生み出す
オーケストラは巡業に出て、各国で拠点となるリハーサルの場も与えられた。このことに楽団員たちは深く感謝したという。
また、楽団には多くのシリア人も参加していたが、シリア人と初めて出会うパレスチナ人も珍しくなかった。パレスチナとシリアの国境がコントロールされているためだ。彼らの関係はその後とても濃密なものになったとジェネラル・マネージャーのタブレ・パーレスは述べる。
そしてダニエル・バレンボイムはこのように語る。
The Ramallah Concert ラッマラでのコンサート
エドワード・サイードはWest-Eastern Divan Orchestraのラマッラでの公演がいつか叶うと信じていたが、実現する2年前に亡くなった。2005年のこのコンサートは特別なもので、後にも先にもパレスチナでのコンサートは実現していない(公式アーカイヴ参考)。当時の映像は一部公式Facebookで公開されており、音源はアルバムにもなっている。当BBCエピソードで放送された楽曲もすべてコンサートで演奏された音源である。
バレンボイムの息子、マイケル・バレンボイムも2000年からヴァイオリニストとしてプロジェクトに参加している。以下は彼のエドワード・サイードについての追想である。
この言葉に続き流れるのはバレンボイム親子の共演、ドビュッシーのViolin Sonata in G Minorである。
また、コンサート終盤のバレンボイムのスピーチはアルバムにも収録されており、その内容の重要性を確認できる。番組でも一部放送された。以下に引用したい。
コンサートの後、イスラエルの楽団員は国に戻る門限があったため、皆でお祝いをする時間はなかったそうだが、演奏の様子や合間の拍手を聞くとコンサートの盛況ぶりが想像できる。
From strength to strength 強さから強さへ
創設から17年後にプロジェクトは次なる発展を遂げ、ベルリンにBarenboim-Said Academieという音楽院が開校した。このエピソードはその構内で収録された音声も含む。
他にも特筆すべきことがある。2009年の年明けに楽団が世界各地でのツアーを予定しているとき、ガザは戦火の下にあった。2008年の大晦日、バレンボイムは団員たちに「このような状況でツアーに出たくなければ行く必要はない」という旨のメールを送ったが、誰ひとり欠席者はいなかったという。このプロジェクトが彼らにとっていかに重要で断固としたものだったかが窺えたと、当時楽団に同行していた番組司会者クレメンシー・バートン=ヒルは語る。
The Divan at 25 25年目のDivan
2005年のラッマラでのコンサートは楽団にとって大きな出来事だったとマリアム・サイードは語る。翌2006年のレバノンでの戦争の影響も受けたが、プロジェクトは継続したことも。その後もバレンボイムの指導のもと楽団は世界有数の会場で公演をこなし、各地で演奏を求められるオーケストラに成長した。
一方でマリアムはラマッラにある音楽学校のことにも触れ、エドワード・サイードが生きていればプロジェクトの一貫として思想教育にも尽力したであろうことを想像する。
サイードはパレスチナの未来のために最期まで「文化」を重んじたという。音楽、文化を通して、バレンボイムが訴えかけたように「相手のナラティヴを聞く」ための「理解、忍耐、勇気、好奇心」をもちたいと思う。
参考資料
The West-Eastern Divan Orchestra公式ウェブサイト
公式インスタグラム
『私たちのオーケストラでは、イスラエル人とパレスチナ人が共通基盤を見出した。私たち皆の心は今回の対立で引き裂かれている ー ダニエル・バレンボイム』(The Guardian. 2023年10月15日更新; ヘッダー画像出典 - Odd Andersen/AFP/Getty Images)
『コロンビア大学のコミュニティーが〔学生に〕愛され尊敬された教授、エドワード・サイードを悼む』(The Electronic Intifada. 2003年9月26日更新)
2006年ベルリン・フィルハーモニーでの公演の様子
Beethoven: Leonore Overture No. 3 | Daniel Barenboim and the West-Eastern Divan Orchestra(DW Classical Music. 2021年10月2日更新)
YouTubeやInstagramには他にも演奏風景などがアップされている。