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コケタ

環状線の女性専用車両に飛び乗った。視界に不自然なものがよぎる。年配のおじさんらしき人が端の方の席に移動した。わたしは咄嗟にそこからひとつ空けた横の席に座った。ぞくぞくと乗り込んで来る女性たち。私とおじさんの間の空席に座る人は誰ひとりいない。まるでそこにバリアがあるみたいに、一度座りかけた人もふわっと、きれいに避けていく。そうやんな、ここ、女性専用車両やんな。うん、女の人ばっかり。気づけよ、おじさん。でも声をかける勇気はない。おじさんの咳払いが聞こえる。きっとただ間違っているだけだろうが、分かってそこに座っている可能性もゼロじゃない、と思ったら、
気持ち悪い。
ごめんなさい、おじさん。こんなことを思うのは、わたしが十代のときに痴漢に遭いまくったせいだろうか。
悔しい。
辛い。
気分が悪い。
また、おじさんの咳払いが聞こえる。おじさん、次の駅で気づいて降りてくれ。まだか、降りない。どこで降りるんやろ。
気分が悪い。
苦しい。
悔しい。
こんな些細なことで気持ち悪くなるなんて。数個先の駅でおじさんはとぼとぼ、ゆっくりと降りて行った。よかった。
自分の駅に着く。目的地に向かう途中で銀行のATMに寄るかどうか迷う。帰りに寄っても時間的に手数料はかからんはず。でも忘れるかもしらんし、ちょっと遠回りやけど今のうち行っとこう。駅周辺、いつもより混んでる気がする。年末やから? 無事お金を引き出して、目的地に向かう。ちょっとギリかな。走るか……
ふわっ
ズザザ
……
え? あ、メガネ、割れてない? 咄嗟にメガネを外す。よかった、割れてない。
大丈夫ですか?
あ、すみません。
大丈夫ですか?
すみません、すみません。
男性が拾って差し出してくれたメガネを受け取る。恥ずかしい。外した後焦って無意識に道に置いていたようだ。恥ずかしい。男性は、大丈夫ですか? と声をかけ続けてくれる。恥ずかしい。ふと見上げる。暗がりでよく見えないが、トレンチコートの下にスーツを着ているような装い。仕事帰りだろうか。キャリーケースを持っている。出張だろうか。そんなときに申し訳ない。恥ずかしい。
すみません……!
じわじわ立ち上がった。
大丈夫ですか? 怪我とか無いですか?
すみません、大丈夫です!
恥ずかしい。男性はこちらの様子を伺いつつ小さく会釈をして、そろそろとキャリーケースを引いてコンビニに向かって行った。やさしい人よ、ありがとう。こういうシチュエーション、ドラマとかならもう一悶着あって恋が芽生えたりして。とか思うのは最近90年代の恋愛ドラマを見返してるせいか。やっぱりロンバケ最高。山口智子最強。広末かわいい。キムタク凄い。あぁ……、痛い。左膝が曲がらない。引きずって歩き出す。あ、ポシェットの紐が千切れてる。最近はサコッシュとかいうらしいが未だにその呼び方に馴染みがない。手が、震えている。頭、唇がじんじんする。手、そこらじゅう擦って血が滲んでる。血見るの苦手やのに。あかんのに。きつい。辛い。マスクを外す。よかった、白いままか。時間をかけて横断歩道を渡る。いつもの道のりが長い。でも無事目的地に着いた。エレベーターに乗る。ボタン上部の時計は18時25分。予定時刻より5分早い。なんや、走らんでよかったやん……。着いたら絆創膏をいただく。助かった。
用事を済ませて帰る。途中、ドラッグストアに寄らないと。あぁ、絆創膏だらけの手、煩わしい。トイレでジーパンを下ろすと左膝、一番広範囲に擦りむいていた。京阪線に乗り込む。今日は選択をミスった。時間を戻したい。ついてないな。いや、自分が余裕持って行動せえへんかったから。あぁ、ミスった。ぼーっと車窓の外を眺める。あ、ビルの谷間からチラ、チラ、黄色く、見える。もしかしてあれは……、
見えた。
いいことがあった、こんな日でも

月が、きれいだった。
あぁ、恋がしたい。






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Nozomi Matsuyama
最後まで読んでくださり多謝申し上げます。貴方のひとみは一万ヴォルト。