齋藤 優子/最上ラズベリー会/Berryneさいとう農園
キャッチ
■プロフィール
山形県北部の最上地方に、昭和に入植した水稲と和牛繁殖を専業とする農家の3代目となる夫と結婚。
当初は家事と子育てが生活の中心で、義理の両親と夫の補助という形で、田植えや牛の餌やりを手伝っていたが、3人目の息子が小学校に入学したタイミングで、自分が主体となって農業を楽しみたいと考えるようになり、県が産地化を進めるラズベリー栽培に挑戦することを決意。
2012年、県内の4市町村の生産者で「最上ラズベリー会」を結成し、国産ラズベリーの栽培と付加価値向上を目指した販売を開始。
2022年現在は真室川町、尾花沢市にも圃場が広がり、同会の3代目会長として、またBerryneさいとう農園の農園長として、農業活性化のためのさまざまなイベントで活躍中だ。
■農業を職業にした理由
結婚以来、夫の家業である水稲や和牛繁殖を手伝ってきたものの、子育てがひと段落した2012年、それまでのサポート的な役割ではなく、自分が主体となって活躍できる農業をしたいと模索していた矢先に、ラズベリーの研究プロジェクトを知る。
山形といえばさくらんぼの産地だが、最上地方は豪雪地帯のため、雪の重みで木の枝が折れてしまうため、栽培が難しかったのだが、県の農業技術普及課が進めてきた研究によって「ヒンボートップ」という品種ならば寒冷地でも栽培できることが実証された。
当時は栽培ノウハウの蓄積がない果樹だったが、体力のない女性や高齢者でも取り掛かりやすく、最上地方の新たな特産を作るために、県が生産農家を募っていることを知って、栽培セミナーに参加したその日のうちに参加を決める。
以来、「日本のラズベリーの一大産地化」を目指して、新庄市、金山町、舟形町、鮭川村の生産者で「最上ラズベリー会」を結成し、県と連携しながら生産体制を拡大。
会員数は一時40人以上になり、生産量も2トンまで拡大したが、現在は11人体制を維持しており、3代目会長として若手生産者の指導やラズベリーの普及活動を続けている。
■農業の魅力とは
ラズベリーは、効率重視の農業には向いていないかもしれません。少しでも傷がつくとドリップが出て、鮮度を失いますし、手作業で軸を抜いたり、収穫にも手間がかかりますので、流通が広がらず、国内で流通しているラズベリーの大半は輸入品です。
3人の子育てをしていた期間は、生活の中心が家事でしたので、農業への関わりは夫や義両親の手伝いに過ぎませんでした。そのままだったら、やがては義母が担当していたニラ作りが私の担当になる予定でしたが、時間的な余裕ができた時に、農業に積極的になれない自分に気付きました。
そして「面白くないと思って農業をしている母親を見て、子供たちはどう思うのだろうか?」と我に返りました。自分が主体となって楽しんで仕事できる作物を探していた時に出会ったのが、県の農業技術普及課の研究チームが紹介してくれたラズベリーだったのです。
見たことも食べたこともない作物でしたが、見た瞬間に栽培したいと参加を決めたのです。ちょうど、結婚した当時に新庄市の若者園芸実践塾から提供されたビニールハウスが空いていたこともラッキーでした。
最初に、ラズベリーのセミナーに誘ってくれたママ友や、最上ラズベリー会に参加している生産者の皆さんをはじめ、私の作るラズベリーを気に入ってくれるお客さんなど、ラズベリーを介して、たくさんの人と交流できることに喜びを感じます。
地元の農業高校では、6次産業化の授業で、ラズベリーの美味しい食べ方を研究してくれていますし、小学5年生のクラスでは「地元で自慢できる作物」として収穫体験の授業もあります。また、農園サポーターとして不登校や引きこもりの若者たちに協力してもらっていますが、彼らが農作業を通じて元気を取り戻す様子を見るのも私の喜びになっています。
■今後の展望
ラズベリーを作り始めて10年が経ちました。長雨で圃場の冠水被害に遭った年もありましたが、私の農園では平均して年間100〜150kgほどの収穫があります。
山形県で作られたラズベリーは、首都圏のレストランや洋菓子店、ジャムやジェラートのお店に流通しています。最上ラズベリー会は現在、私が3代目の会長職を務めており、一時は会員が43人、年間収量が2トンになった時もありましたが、今は生産者が減っています。
でもこれだけ華やかな果実なので、一度味わってくれたお客さんは皆さん「応援したい」とおっしゃってくれます。最上地方で生まれたラズベリーの芽を絶やさずに、次世代の女性生産者にもつなげていきたいと思っています。
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