見出し画像

【三国志の話】三国志学会 第十九回大会(前編)

 今年も9月8日に会場で聴講したので、簡単にですが、内容をご紹介します。

 今回も自分が理解した範囲で内容を整理しましたが、記憶違いや誤認識があれば指摘いただけるとうれしいです。


『毛宗崗本三国志演義』と祝融夫人

金沢大学大学院 李欣霜

 『三国志演義』には女性キャラは多く登場するが、祝融夫人は、唯一戦場で戦う女性。
 それを毛宗崗もうそうこうが厳しく批判するのはなぜかを、考察した内容。

先行研究

 『三国志演義』の研究に、女性の描写を批評する先進的な研究はあるが、いずれも祝融夫人については触れていない。

 毛宗崗が生きた時代の清王朝は満州族の政権だったため、毛宗崗の反清思想についての先行研究もあるが、非漢民族に対する差別意識までは至っていない。

蛮族に対する評語

 蛮族の女性に対する評語では、蛮族が下品であるという点と、女性が武骨である点の、二つの批判ポイントがある。

 例えば、楊鋒ようほうと|孟獲《もうかく》が酒を飲む場面(第89回)。
 蛮族の女性が刀で踊るシーンでは、両方のポイントで批判している。

 混浴で配偶者を見つける場面(第90回)では、蛮族の風習を下品であると見下している。

 関羽が劉備の二夫人に対して敬意を表する場面(第22回)では、男女の区別を厳密にする関羽のふるまいを高く評価することで、間接的に、男女を区別しない蛮族を批判している。

 蛮族の男性像に関わる毛宗崗の評語は168箇所あるが、蛮族は殺されても構わないという意味のものが多い。
 例えば、諸葛亮の火計で焼き殺された烏戈うか国の兵士たちに同情していない。

 蛮族の風習に対する評語は、李卓吾りたくご本には全くないのに対して、毛宗崗本には12箇所ある。
 そこには、漢民族に敵対するからという理由だけではなく、儒教的な価値観(人倫)を理解しない蛮族は明らかに劣っている、という差別意識が見える。

 諸葛亮は南蛮平定後、蜀の官吏を置かずに南蛮人に管理を任せる(第90回)。
 毛宗崗は、中華と同じ方法で管理するのは難しい、という理由で蛮族に任せた諸葛亮を高く評価する。
 その背景には、漢民族と蛮族を同一視することに嫌悪感があったのではないか。

毛宗崗の思想的な背景

 毛宗崗の父毛綸もうりんのときから、漢民族である明への忠義を尽くした蒋一族と親しかった。
 毛父子が暮らした蘇州は反清運動が激しかった土地であり、その影響を受けた可能性が高い。

 戯曲『琵琶記』への毛綸の評語では、非常時以外では人前で顔を見せない女性を貞淑として評価している。
 つまり、戦場に出て顔をさらす祝融夫人は、必然的に低評価になる。

まとめ

 毛宗崗は父毛綸の道徳観を受け継ぎ、ジェンダーロール(性別役割分業)や非漢民族への差別意識が強かったと考えられる。

質疑応答

Q. 女性への差別意識について、毛宗崗の評語だけでなく本文の書き換えは調べたか?
A. 李卓吾本では「髪を振り乱して裸足で」という文があるのを、毛宗崗は削っている。女性が裸足であるという描写が信じられなかったのではないか。

Q. 着眼点が素晴らしい。李卓吾も総評では差別的なことを書いている。総評(序章・本文含めて)どうしの比較はしたか?
A. 毛宗崗の総評は回ごとの評語と一貫しているらしいことは分かった。李卓吾の総評はまだ調べていない。

感想

 女性の人物像についての研究そのものは良いと思います。
 ただし個人的には、どうせなら実在する人物の方が興味が持てます。

 実在しためぼしい女性、例えば蔡琰(蔡文姫)や、趙娥(龐娥)辛憲英などは、ほとんど研究され尽くしてしまったのかも?

毛宗崗批評本『三国志演義』の「史」的側面

早稲田大学大学院 佐藤大朗

演義は史書か文学か

 近現代では『演義』を文学作品(通俗小説)として見て、毛宗崗による改訂が「文学性を犠牲にして朱子学の道徳観を強化した」「清初の時代風潮を反映した」などの見方があるが、「より歴史書へ近づけた」という見方もあるので、今回はそこを掘り下げてみる。

(筆者注)昨年の三国志学会での竹内先生の発表「『三国志演義』における紀年表現について」も、かなり参考になると思います。

演義第二十一回

 毛宗崗は自らの道徳観で、劉備が「雷に驚いて箸を落とした」を「箸を落としたところに雷が来た」に変更した。

 つまり、曹操に「天下に英雄は私と君だけだ」と言われて焦った劉備が、「雷が怖いという言い訳をして保身を図る」よりも、「自らが警戒対象であることを自覚」して、「雷が怖いという言い訳が通用しないことを承知でとぼける」ほうが史実に近いと判断した。

演義第五十七回

 馬騰献帝に会って忠節を誓う場面を、毛宗崗は削っている。
 李卓吾本では210年に馬騰が献帝に呼ばれて入京し、暗殺計画が漏れて曹操に殺害されて、翌211年に馬超が報復のために挙兵する。

 『後漢書』献帝紀では馬騰は212年に死ぬから史実とは違うのだが、『演義』では馬騰・馬超父子の漢への忠義を記すことで文学的価値を高める。

 毛宗崗本では、献帝ではなく曹操に呼ばれており、陰謀をにおわせる。
 馬騰も曹操暗殺のチャンスと考えたが、曹操の方が先手を打って馬騰を殺害する。

 『演義』では208年に徐庶が西涼の不穏を理由に赤壁を去るなど、ずっと馬騰は曹操打倒の機会をうかがっていたという想定がある。
 献帝が馬騰を招いて暗殺を懇請するのは不自然で、水面下の暗闘の結果だとするほうが史実に近いと、毛宗崗は判断した。

演義第八十回

 曹丕が献帝に禅譲を迫る場面。
 李卓吾本では、曹皇后は「曹操の娘」の立場で、献帝を罵る。
 それを毛宗崗本では、「献帝の后」の立場で、曹丕(の代理である、曹洪・曹休)を罵る。

 毛宗崗は『後漢書』に基づいて書き換えたと言っているが、必ずしも内容が一致しているわけではない。
 キャラクターのリアリティを補強するために歴史書からシチュエーションは引用したが、事績を一致させようとは考えていない。
 単純に正史の記述を取り入れるのではなく、毛宗崗にとって都合が良いところを取り入れた。

質疑応答

Q. 春秋学では実事は空言の対語として使われる。「実事に従り来たり、」ではなく、「従来(じゅうらい)実事は、」となるのでは?
A. ご指摘ありがとうございます。修正します。

Q. 毛宗崗は馬騰の入京そのものは、李卓吾本から丸コピーをしている。
馬超が反乱を起こさないために牽制した、という批評もパクっている。
自分に都合のよい部分は使ったという浅いものではなく、義の価値観に一致したからでは?
A. 同意する。何でも書き換えるのではなく、思想性を取捨選択したと考える。

Q. 史を慎重に扱うのであれば、文学も慎重に扱うべきでは?
通俗小説は文学(詩や戯曲)より一段下で扱う傾向だったから、価値を高めるために「史に近い」と言う必要があったのだろう。
A. 史に関心が偏っていた。当時の文学が近代文学とは違うことも意識したい。

感想

 個人的には、今回一番面白いと思った発表です。

 過去にも書いてきたように、『三国志演義』の研究の多くは三国時代の研究ではなくて、明清時代の道徳観を研究するものなので、基本的には面白くない。

 しかし今回佐藤氏は、「三国志の読み方、古い文字資料との付き合い方についての問題提起をする、試論という位置づけである」「正史は歴史書で演義は文学という見方に一石を投じたかった」と述べていました。
 筆者にも、共感できるところが多かったです。

 現代でも、文学に限らずあらゆる作品が『演義』や吉川英治を継承しつつも、正史などの歴史書を参照してリアリティを補強することは当たり前に行われているし、部分的であっても歓迎すべきことだと考えます。
 例としては、近年コーエーのゲームには正史にしか記載のない人物(例えば、戯志才ぎしさいとか)も登場しますが、その結果ゲームとしての完成度が高くなればよいと思います。

後編の予告

 ここまでで二名分です。今回、あと三名の発表のメモがあります。前後編に分割して、残りは後編に持っていきたいと思います。

 どうぞ、後編も合わせてお楽しみ下さい!


貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございました。有意義な時間と感じて頂けたら嬉しいです。また別の記事を用意してお待ちしたいと思います。