カープ20年

野球殿堂博物館は18日、今年の野球殿堂入りを発表、プレーヤー部門で日米通算203勝の黒田博樹氏がプロ野球記録の通算3021試合の谷繁元信氏とともに選ばれた。

 黒田氏は41歳で引退するまで先発のマウンドに立った。「1試合、1試合必死に投げた積み重ね。20年間はあっという間だった」。広島、ドジャース、ヤンキース、最後広島がキャリアだが、大阪の上宮高時代は控え投手、それでも南海で強打者だった父は「東京で勝負したらどうか」、高校の体育の教諭だった母には「とにかく家を出て行って」と背中を押され専大に進んだ。

 その後平成8年のドラフト2位で広島に入団。決して切れなったカープとのつながりの初めだが、ここで13年から5年山本浩二監督の下で投げたのが黒田をエースに押し上げた。「チーム事情もありましたが先発したら少々の事では代えてもらえませんでした。苦しかった事も多かったです。でも最後までのこだわりも山本監督に叩き込まれました。41歳まで投げられたのはあの当時の経験があってだと思います」と述懐。

 感謝された山本監督は「投手分業制の中でかたくなに一人で投げ抜いて勝ち取る事を実行してくれた。だからメジャーでも頑張れたのだと思う」と褒めるが、最多勝利がかかった17年の終盤後1勝のところでリリーフさせた。勝利を記録、タイトル獲得に繋がったが山本は「悔しかったと思う」と申し訳なく思っている。

 33歳、FAでドジャースに移籍してから投球スタイルを代えた。広島ではフォーシームとスライダーだったがド軍で大リーグ通算350勝のマダックス投手にツーシームを教わった。打者の手元でシュートする球で「現役でいられる時間が少ないので吸収出来るものはすべてという貪欲さがプラスになった」。

 ド軍には4年在籍41勝。ヤンキースに移って3年で38勝。4年目も20億円で引き留められたが野球選手の最後は広島でと振り切って帰国。27年、8年ぶりの広島で11勝、翌年10勝、広島25年目の優勝に貢献、その年を最後に引退。20億を振り切り広島に戻ってきた黒田に本拠地を埋めたファンの黒田コールは続いた。

 「カープに入団していなかったら今日の日はこなかったと思います」今も広島市内に居住。町で出会うファンは我らのヒーローとして接している。

令和6年1月20日

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