【読書感想文】街とその不確かな壁/村上春樹(4,235文字)
ここ最近(といっても、10年くらい)は、彼の長編小説が出るとその週末に一気に読むことが多かった。というか、そのような読み方をしていた。
ただ、今回は、ゴールデンウィークに読み始めた後、まとまった時間を確保して読むことはせずに、週末に少しずつ読み進め、7/9(日)夕方ごろ、近くの喫茶店で読み終えた。
達成感と安心感。読み終えた後の率直でシンプルな感想。こう言っては何だが何も起きない。ただただ個人的な話のように感じる。だけどそれが私にはとてつもなく心地よくて、優しくて、安心できた。
過去の長編と比較することでしかこの作品を語ることができないのは何とも実力不足であると思うのだけれど、それでもやはり比較するとなると、この作品には私の知る限りの直接的な暴力による描写がないし、過去の人類の過ちに対する言及もないように思えた。
過去の戦争の悲惨さに言及するでもなく、違った形で個人的な問題に言及していく。それがとても新鮮であり、だからこそ、こちらもいつもとは違うペースで読み進めることができたのかもしれない。もはや騎士団長殺しにそのような描写があったことすら覚えていないのだけれど。
17歳の短すぎた恋が物語の装置になり、そこで少年は人生において大切なものを喪失する。
もちろん僕にはそんな経験がないし、思春期の恋愛なるものさえ経験をしてこなかったので、そこに共感などはない。ただ、美しい物語の導入としてそれを受け入れる。それだけの話。
40年の時を経てこの物語を消化させるために登場してきたものは、人類が生み出した過去の残虐性への言及とその対価ではなく、ただ単に個人的な思春期の淡い思い出だということは非常に興味深い。
壁の中の生活は、読んで字の如く壁の中である。時計はあるが時間はない。そこには記録なんてものはなく、過去も未来もない。過去は全て夢という形で図書館に保管されており、現実だけがそこにはある。誰も人生の意味なんてものに興味を持たない世界で、少女と2人図書館で夢読みを行う日々。本来求めていた彼女との生活。ただし、確実にその生活には犠牲がついて回ることを感じるようになる。
最終的に彼は自身の影だけを外の世界に逃してやる。最初はこの場所を望んでいたはずだ。だけど未練のようなものがあり、結局影だけを外に出すという中途半端なことをした。それもこれまで蓄積していた違和感であり、向き合う必要のあったことなのだ。
影として、いやもちろんそんな自覚は本人にはないのだが、現実の世界に戻ってきた僕は、予言に吸い寄せられるように図書館の求人を探すことになり、偶然そこで出会う福島の田舎にある図書館で働くことになる。
上のセリフはまさに壁から外に出て、人との関わりを求めているメッセージだと思う。もはや自分のことが影かどうかなんてことはわかるわけもなく、影と一緒に外に出てきたと錯覚する。いや、それは錯覚なのかどうかすらわからない。ただ間違いなく人との出会いを求めている。
夢。予言に導かれるように、福島県へ。
そこで出会う元館長の子易さん。死後の住人である彼とは、また分断された空間でのみ会話をすることができる。その場所が図書館の半地下であることが興味深い。こちらとあちらの中間地点のような場所。井戸、そして、地下。
どうしてもあらすじをなぞりたくなってしまう。それからではないと感想にたどり着けないようなモヤモヤがあるので、もう気の向くままに手を動かしていきたい。
新しい町における添田さんとの出会い。イエローサブマリンの少年との出会い。ブルーベリーマフィンの彼女。いつしか僕はブルーベリーマフィンの彼女と仲良くなり、イエローサブマリンの少年からは特殊な好意を持たれることになる。
影としてこちら側に逃がしてもらえた半分の自分は、物語の最後にイエローサブマリンの少年によって、完全に元の自分に帰る。
それを可能にしたのは、やはりブルーベリーマフィンの彼女への好意なのだろう。ずっと呪縛のように囚われていた16歳の彼女への想い。それだけが揺るぎないものとして、人生の指針だった僕の人生。
影を失い、犠牲を払い彼女と一緒に時間の概念がない世界で暮らし続ける生活。そんな選択肢もあったのかもしれない。
ただ、彼はそれでもなお、時間がかかったかもしれないが、やはり他者と繋がることを選ぶため、壁を出ていく。
このセリフがすごく良い。特別なメタファーではなく、ただわかりやすいこの言葉。自分を信じて、他者を信じて、他社に助けられて、誰かの役にたつ。世の中に必要とされている。だから、外に出ていく。人と関わりを持とうとする。
イエローサブマリンの少年もきっといつか彼の代わりが来るのをその街で、壁の中で待ち続けるのだろうか。彼の影はそのまま亡くなってしまうのだろうか。そう考えると、イエローサブマリンの少年が愛おしい。壁の中における彼の存在は全てを達観、いや、諦観しているような気がして、彼が背負ってきた孤独が苦しくて、なんとも言葉にできない気持ちになる。
山奥で木の人形となった少年。そうまでして、彼の理想とする街へ行きたかった理由。全てを受け入れてくれる場所。
壁の外がいつでも良くて、閉鎖された中の世界が悪いなど僕には判断できない。それは人によって違うのだろう。ただ、永久的に規定されるようなものではなく、人生において適切なタイミングで成るようになる。人生というのはいつでもそういったものだ。偶然。
主人公もブルーベリーマフィンの彼女もそして、私の誕生日も妻の誕生日も水曜日であるといったように。
だから、焦らなくてもいい。逃げたい時は逃げてもいい。いや、別に逃げるわけではない。その時に自分がいるべき場所にいればいい。いつだって、僕たちはどこにだって行ける。失われたものは失われたままだが、それを受け入れることで、違う大切なものに気づくことができる。
今回コロナ禍において執筆した作品ということで、どうしても「壁」という言葉に、ある種の現実世界における分断を重ねることになるわけだが、どうだろうか。
突如として、恣意的なものでもなく、ある種の自然の脅威、あるいは、人類の進化のツケとして、目の前に現れた壁に対して、我々はどのように感じていたのだろうか。
悲観的な側面ばかりではなく、安堵という感情もある程度は成り立っていたのではないだろうか。人との付き合いが面倒で仕方がない。交流はそんなに簡単なものではなく、無理に心を消耗させる側面もあるだろう。ありのままと言っては聞こえはいいが、誰が本当の意味でありのままの姿で生きているのだろうか。
それなりに役割を演じて、その役を綺麗にこなしていた我々にとって、突如現れたその壁は、急にその役割を奪っていく側面もあった。仮面を外した我々は社会との接し方に苦慮することになる。器用な人ほど、他者との間にしか自分を定義できずにバランスを崩してしまったのかもしれない。
すごく個人的な感想を最後に。
最初に書いたとおり、表面的にこの物語に共感するところはあまりないかもしれない。喪失感に照射されるほどの恋をした経験もなければ、そこまで深刻な孤独や分かり合えなさみたいなことを考えたことはない。
また、コロナ禍によって、何か自分を見つめ直すようなことも特になかった。分断と言われるようなことを寂しいとも思わなかったし、そう言った環境による変化があまり僕の人生において何かを与えることはなかったと思っている。
もしかすると、数年経った後に気づくことになるのかもしれないが、少なくとも今はコロナのせいにできそうなことは本音ではない。
なので、そういう意味においての壁は僕には正直よく分からない。残念ながら。僕のアンテナはその程度。
ただ、やはりというべきか、過去の予言のようなものと対峙する。このことの大切さと強さは今回も感じたことだ。
予言めいたものに雁字搦めになるようなこともあるが、タイミングを見計らいそれと向き合う。そうすることで新しい世界にいつだっていける。
そんな勇気の物語と言ってはとても稚拙な感想だが、僕はいつだってこの人からはそういうことを感じている。
無視してもいけない。向き合ったところで超越するかは分からない。時に残酷に心の大切なところを抉り続ける。それでも、痛みを伴っても、過去と向き合わなければいけない時が来るし、それが必要なことなんだと思う。
僕にだって、いつかそんなタイミングが来るのかもしれない。その喪失にすらまだ僕は気づいていないのかもしれない。ただ予言のように40代の僕はどこか1人で「やれやれ」とこれまでの人生を振り返っているような気がするのだ。
それすらも僕は望んでいるのかもしれないし、これが何を意味しているのかはわからないのだが。