河川敷に映る人材育成の過ちとその陽炎
2020年8月29日の15時くらいだっただろうか。炎天下の中、河川敷をランニングしていたときに見た風景。僕はその風景をみて、変わらない日本の組織におけるマネジメントの問題点を見たような気がする。
群盲象を評す。人は盲目。旧態依然の慣習は批判されるし、散々自分も批判する側にポジショニングすることがあるにも関わらず、まさか自分がその旧態依然の立場にいるとは想像できないものだ。
パワハラやセクハラの問題をニュース番組で非難していたコメンテーターが、自身の周囲には当たり前に何かしらのハラスメントを犯してしまっているのと同じように。
河川敷の野球グラウンドで中学生(おそらく)が練習をしていた。部活ではなくクラブチームなのだろう。その時は、試合形式の練習をしていたように見えた。バックネット裏には、監督のような風貌の男性がパイプ椅子に座って、その練習風景を黙ってじっと見つめている。
その監督のもとに練習着を来た一人の少年が小走りでやってきて、監督の前で一礼、脱帽したうえで、監督に何かを報告し始めた。おそらく試合形式の練習における自身のプレーの反省点のようなものを報告しているのだろう。もちろん僕にはその内容までは届いてこないのだが。
監督は、少年が監督のもとに来てから、一度も少年の顔を見ることもなく、ずっと変わらずに黙ってバックネット裏から練習風景を見続けている。少年に対して、何かを伝えているようにも見えないし、相槌を打つわけでもない。それでも、少年はただただ一人で報告を続けている。
あたかも、監督のもとには少年など来ていないかのように。若しくは、本当にその少年の姿は僕にしか見えていなかったのかもしれない。
監督、特に子どもの指導者の立場にいるような人間が、このような態度を取る意味は、どこにあるのだろうか。これは「厳しい」練習の一環なのだろうか。このような類のふるまいを「厳しい」というのには少々納得しがたい。これはただの暴力だ。
報告に来るように求めているのはおそらくこの監督のはずだ。自分が相手に求めたことをしてくれた際にまず必要なことは、その反応に対する感謝の意を伝えることだ(どんなかたちであれ)。監督と選手、上司と部下、親と子、人間同士、いや、人間同士に限定せずとも犬や猫といった動物に対してさえ、何かをお願い(指示も含む)した時には必要なことだ。
人間関係というのは、こういった土台のもとに成り立つものだと思う。
このような態度を受けた少年はもちろんいい気はしないはずで、「よしっ!がんばろう!」とはならないだろう。態度と口では前向きに受け止めたよう振る舞うだろうが、本心は別だろう。単に「むかつく」だけで、その「むかつく」捌け口をどこかに探すことだろう。
指導者たる人間はここまで想像できているのだろうか。
自身がやられたことと同じことを他の相手に繰り返すことで欲求を埋めていく可能性について想像しているだろうか。特にクラブチームで野球をやっているような少年は、それぞれ所属しているコミュニティにおいて強い立場にいる可能性が高く、結局は立場の弱い者に同じことを繰り返すその危険性について考えているのだろうか。
監督は、当事者たる少年一人でこの「厳しさ」を受け止めてほしいのだろうけれど、そんなことを一人の少年に求めるのはただのエゴだ。他への波及に責任が取れないのであれば、そんな態度は取るべきではない。
というか、やっぱりそもそもこの態度が及ぼし得る効果について、そもそもよくわからない。こんな態度を取ったところで何になるのだろうか。
たいして考えもせずに、なんとなくこういった態度を取っていたり、自分の機嫌だけの都合だったとしたら、この監督は指導者ではないし、もはや大人でもない。指導の対象としての少年と何ら変わりないだろう。稚拙で愚かな指導者のかたちをした何かだ。
過度な「厳しさ」はどこから来るのだろうか。いまだに強くなるにはこの方法しかないと信じ込んでいるのだろうか。まだまだ精神的にも発達途上にある少年たちに対して、この「厳しさ」は何か意味があるのだろうか。もしあったとしても、他にももっと効果的な方法があると思うのだけれど。
どこか盲目的にこのような指導をしている気がしてならない。
もちろん、すべては僕の杞憂かもしれない。ランニング中に目に入ってきたたった数秒のシーンだ。多くは僕の妄想の物語。
僕が去った後に、監督が少年を抱きしめていたかもしれない。それはわからない。どんな可能性だってありえるのだ。
あるいは、夏の炎天下のせいかもしれない。そんなことをぼーっと考えながら河川敷の陽炎の中を僕は走り去った。