”モチベーション”について
途中で書いていて気付いたけど、今回一人称は「僕」。その方が書きやすかったから、理由はこれだけ。
人事パーソン、若しくは、すべての働く人、というか、全人類にとって、この「モチベーション」という言葉は、自分で言ったり、人の口から聞いたりする機会は多いんじゃないでしょうか。
今回は、あくまで「働く人のモチベーション」という枠に限って、話をしていきたい。学術的なバックグランドは軽くかじった程度なので、(ダニエル・ピンクは読んでないけど、名前と内容はなんとなく知っている程度)あること、ないこと、思うがままに書き連ねるので、そのあたりはご了承いただけますと。
早速、スタート。そもそもなんでこんなことを考えたのかというと、週末に、立教大の中原先生のとある言葉を見つけたから。
(1)「仕事へのモチベーションが上がっただの、下がっただの」というトークを耳にするたびに、僕は、不思議に思う。「モチベーションをコントロールすること」は仕事のうちだ。
(2)「あなたのモチベーションをあげる」ために仕事が存在しているわけではない。「あなたの仕事」のなかに「モチベーションのコントロール」は含まれている。
(3)少なくとも僕はそう思って仕事をしてきた。他人の信念は知らない。でも、僕の信念は、これだ。
完全、同意。こんなことを言うのは、若干恥ずかしいけど、自分の思っていたことをそのまま言語化してもらった感じ。なぜ、人はモチベーションを外に求めてしまうのだろうか。自分はそのあたりが良くわからない。いや、自分もどこかでは外に求めているのかもしれない。でも、10年程度社会人をやってきて、ある程度、僕も学習をしてきたのだ。
もともと人のモチベーションは外にではなく、内にあったはず。子供なんかを見てるとそう思う。自分がやりたいことを親の反対を押し切ってまでやりたいんだ。
このあたりは、各々の就業経験、というか、これまでの軌跡に依るところも大きいのかもしれない。それでも、自分のことなんだから自分で考えるべきなんだ。誰かの何かのせいにして、それでどうなるっていうんだ。人生において、今までそれでどうかなった試しがあるのか。こういうことを学習していって、矢印を自分に向けていくことが大人になるということだと思うし、自分をよく理解し、自分とうまく付き合っていくことで、自分の人格のようなものが太くなっていくんだと思う。
知識、思考、感情、性格などを統合した個人のあり方が人格。
就職活動なんかでは、自分でこんな仕事をしたい、や、こういう企業で働きたい。と一生懸命考えて、自分で行動し、自分で自分の想いを伝えて、選択肢の中から、自分で自分の進む道を決めてきたはずだ。就職活動だけじゃないな、これまでの人生はいつだってそうだったはず。
でも、なぜ企業に入った瞬間、というと言いすぎかもしれないけれど、入社すると徐々に自分では何も決められなくて、何も努力をしなくなる人が多いのだろうか。
できていないことばかり気にして、できていない人ばかりを糾弾して、一緒に改善しようとは思わない。どこかお客さん感覚で、つまらなさそうな顔をして、人の挑戦をあざ笑うかのような。君のどこにそんな余裕があるんだ、と。
自分だけがたいへんで、自分だけが不運で、自分だけが可愛くて。とてつもないエゴイストの権化みたいなやつがどんどん増えていく。
マズロー的に言うと、就職活動の時点、というか、就職の時点では、自己実現欲求MAXの状態で入ってくると思うんだけど、入社してしばらくすると、社会的欲求や承認欲求オバケみたいな状態に戻ってしまう。しかもそれを自分で解決しようとしないし、自覚すらない。
僕はよく思うんだけど。お金を払ってまで通う学校の試験のためには、家で勉強したりするのに、お金をもらう社会人になると、家で勉強しなくなるのはなんでなんだろう。また、勉強しろ、という圧力に過度に反対するのはなんでなんだろう。
勉強会をやると、それって残業代でるんですか?とか、資格取得を促すと、その勉強時間って業務時間になるんですか?という発想になるのはなんでなんだろう。
正直、別に、就業時間でもなんでもいいと思うが、「自分がやりたくないんならやらなければいい」と思う。別に、黙って四の五の言わずに、家で勉強しろとか、は思わない。「やりたくないんだったら、やらなければいい。」基本原則はこれ。やるのも、やらないのも全部自分の責任の範囲内で決めたらいいと思う。
企業の経済学的に考えると、資産、いや、この場合は資材は、効率的、効果的に使う必要があると思うので、人「材」についても、可能な限り、その効果の発揮を「期待」ではなく、マストとして、発揮させなければならないと思うんだけど、このへんが難しい。
やりたくないんだったら、やらなければいい。これは、一人ひとりの人「材」を本当に、ヘッドカウント1として扱うだけなので、もったいないんだけど、仕入れた材料の品質が担保できなかった、と捉えるべきだろう。
それなりのコストを掛けたら、不良品も使えるようになるかもしれないが、そこにそんなにコスト掛ける?的な。そういった不良品のケアを永遠とすることよりも、いっそのこと「座ってるだけで30万あげるから何もしないで、何も求めないで」という契約をした方がwin-winなんじゃないだろうか。
結構最近は割と本気で思ってる。人事パーソンとしても、マネージャーとしても失格かもだけど。
少し話がそれてしまったかもしれないが、ここで「モチベーション」に話を戻したい。
何回も言うけど、僕の考えは、「やりたかったらやったらいい」だし、「やりたくなかったらやらなければいい」。これが僕の考えるモチベーションの在り方。
純粋な気持ちだけには限定しなくていいと思う。本当はやりたくないけど、いろんなことを自分で考えた結果、「やりたかったらやればいい」そう思えばそれでもいい。
モチベーションのコントロールっていうのは、こういうことを言うんじゃないかな。
誰かに何かを決めさせたり、説明不足で判断ができないと言ったり、情報共有されないことを嘆いたり、話を聞いてきてくれないことを嘆いたり。結局、誰かのせいにしているだけ。そういう状況なんだったら、そこで止まるのではなく、その状況を改善するために動くのが仕事だと思う。
なんで自分の大切なモチベーションを他人に委ねなきゃいけないんだ。大切なものなんだから、自分がしっかりと飼いならしておいた方がいい。雨が降ったら傘を差すように。そうやって、環境変化への対応の仕方を学習して知っておかなければいけない。誰かのせい、環境のせいにするのなんて超簡単。誰にでもできる。
そんなことに対価が払われるわけがない。だって、何の価値も生んでいないんだから。僕はこれを断固として、許さない。それだったら、ただただ一日中座っているだけでいい。文句を言うくらいなら、何もせずに座っていてくれるだけで。
世の中は基本的に不条理なもの。別に悲観しろ、とかいうわけじゃないが、20年くらい生きていると、そんな摂理のようなものに気づくんじゃないだろうか。逆にここに気づけないと、社会との距離感がなかなか掴めなくてたいへんだと思う。かわいそうに。
そもそも、どこかの誰かは他人のあなたにはそんなに興味がない。この前提で生きていた方が、時に裏切られるから人生は楽しい。人に必要とされることの嬉しさに気づくことができる。
会社なんて、すっごく従業員有利な施設だと思う。一人でやってたら使えないお金や人が使えるし、企業のブランドを使っていろんな人、もの、ことに会うことができる。もちろん社内の人も含めて。
こんないろんな経験ができて、自分のレベルアップをすることができる場所なんてそうそうない。いるだけでお給金までもらえる。しかも、立場的には、なぜか従業員保護なのだ。こんなご時世でも。
別に会社に限らないけど、仕事を通じて、「自分の世界を広げること、できなかったことができるようになること、知らなかったことを知ること」、総じて「成長」ができる。
「成長」して何に進化するのかなんてわからない。でも、成長した方が、自分が世の中、どこかの誰かを救える可能性は高くなる。人に必要とされる人間に近づくことができる。それこそが幸せだと僕は考えている。
モチベーションから結構話がそれてしまった感はあるけれど、僕がモチベーションについて考えたこと。
最後にゴリゴリのベンチャー企業だった前職の社長から送られてきたメールを引用して締めくくります。
この前偶然このメールを見つけて、やっぱそうだよな、と自分の「根」のようなものを再認識した。
我々一人一人、足りないところがあるように、全て完璧だというものなどありません。
だからといって諦めたり、他責にするのではなく、個人も企業も完璧を追い求めて成長していく行為そのものが大切なのです。
初めはマンション1室で、満足な環境なんてありませんでした。でも一つずつ、共感してくれる仲間とともに築き上げてきました。
これからもそれは変わりません。今共感できる仲間と次の未来を築き上げていくんです。
会社に愚痴をこぼす情けない人がいます。
しかし会社がどうだからと愚痴をこぼす会社に存在し、その環境を創り上げているのはその人自身です。
初めから完璧なものを求めているのか知りませんが、そんなものどこにもありません。
自分で完璧を追う努力をせず、他に責任転嫁している人に、理想の環境なんて訪れやしません。
企業というのは、そこに存在する人、一人一人で良くしていくものです。
行動し、発言もせず先入観で行動しない人ほど滑稽なものはありません。また一度きりの挑戦で諦める人ほど愚かなものはありません。