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駅で100円を届けた話

ここは地方駅の券売機。用事を終え、帰路の切符を券売機で購入する。
そのとき、ふと目を横に向けると、そこに100円があった。
500円でも1000円でもなく100円だ。
この場合、取りえる選択肢は何か。

ぱっと考えたのは以下の3つ。
A:すぐそこの駅員さんに届ける
B:見て見ぬふりをする
C:そっと財布にしまう

そこで僕はAを選択した。
駅員さんはやや驚きつつも、あたたかく預かってくれた。
その100円がどうなるのかは僕にもわからない。
しかし、結果としてただ100円を預けただけではあるが、
どこかほっとする、満たされた、そんな気分になった。
まるで500円のコーヒーを飲んだ時と同じような。

そのときはごく自然に対応したのだが、改めて考えるとなぜ、BやCを選ばなかったのだろう。
何気ないワンシーンではあるが、何か今後へのヒントになるかもしれない。
そう考えて、思考を整理してみることにする。

まずC。これは今の僕にとってはあり得ない選択肢だ。
たかが100円、されど100円。
決して給料は高くはないが、生きるのに困るほど収入がないわけではない。
もし今後、明日を生きることさえ難しくなるような、そんなときが来たとすればもしかしたらCの選択をとってしまうかもしれないが(その際はひょっとすると「神の思し召し」なのかもしれない)、それ以外では決して取らない選択肢だ。
きっと後で、どこか落ち着かないような、
そんなもやもやとした感情に埋め尽くされてしまうだろうから。

次にB。これは自分が「かかわらない」ということだ。
1時間に1本しか通らない駅。券売機を使う乗降客もそういない状況だから、
ひょっとすると気づいた駅員さんが保管してくださるかもしれない。
しかし、見て見ぬふりをすることもやはり、どことなく良心の呵責を感じるところがあるのは気にしすぎなのだろうか。
小学校の時分から「落とし物や忘れ物に気づいたら届けましょう」と言われ続けてきた癖なのか。
何もしないということもやはり、少しもやもやとした気持ちが残ってしまう。

最後にA。ちなみに有人窓口でなければ選択肢として成立しない。
無人駅でどうしようと思った話はまた別の機会として、今回は有人窓口だ。
駅員さんがいる。近くにいる。特に工数もかからない。電車まで時間がある。それらの条件が重なったことも相まって、Aの選択を取るまで時間がかからなかった。

話は変わるが、以前僕は車内にマフラーを忘れたことがあった。
大切にしていたマフラーだったため、問い合わせを行った。
「●月●日●時ごろに、黒のマフラーを忘れていませんでしたか」と。

一方、今回は100円だ。
「●月●日●時ごろに、この駅で100円を忘れていませんでしたか?」
そんな問い合わせが来ることは稀だろう。
100円を忘れたこと自体覚えていないかもしれないし、「100円ごときで」と思うかもしれないし、もう電車に乗った後なら気づいたとしても「あの100円のためにわざわざ戻るなんて」と思うこともあるだろう。
100円のために問い合わせるのも少し気恥ずかしいかもしれない。

だから、僕が100円を駅員さんに届けることは、ある種僕の「エゴ」なのかもしれない。
「自分、ちょっといいことしたな」というドーパミンが放出されているのかもしれない。
もしかしたら小学生が取りに来るのでは、なんて心のどこかで考えているのかもしれない。
あるいは、「もやもや」からの逃げなのかもしれない。

でも、「100円を届ける」という行為は、誰かに迷惑をかけるものではない
(駅員さんにとっては手間が増えるのかもしれないが…)。
ならいいじゃないか、と開き直ってみる。

正義か悪か、なんて、2分論で語られるべきものではないだろうけど、
僕は僕が感じた「ほっとする」という感覚に従い、もし今後100円を見つけたとしても、同様に対応するだろう。

たかが100円、されど100円だ。

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