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仮初の安全と声色の呪縛_6

(前話はこちらから)


 夏休み。夏期講習。
「まだ高2なので塾には行きたくない」
 駄々をこねてみたものの、三者面談のこともあり僕の意見は聞いてもらえなかった。母との交渉の結果、通うのではなく期間限定の夏期講習が妥協点となった。隆太と淳にこの話をすると、二人も夏期講習に行かされることになったらしい。どこの親も考えることは同じみたいだなという話で盛り上がった。

 昨年の夏休みは最高だった。受験について何も考えなくて良くて、ただ中学生の時に妄想していたことを実現していくだけの時間だった。7月の中旬くらいから浜辺には海の家が建ち並び、サファーの独占から解放された地域は一般人でごった返す。街が活気付くというか、地域の色が変わるというか、あの街が変化していく感覚は忘れられない。隆太は彼女をこの時期に見つけたし、淳は初めての失恋を体験した。僕は何もなかった。それでも、4月に高校に入学してから女性と言えば古典の40代後半の先生と母親、それから祖母くらいしかいなかったので、夏休み期間中に色々な女性と話すのはとても楽しかった。
 一緒に花火大会なんかにも行ったりした。告白しても良さそうなタイミングも合ったかもしれないが、僕は一歩踏み出すことができなかった。いくら表情を見ても声を聞いても僕と付き合ってくれるのかが分からなかったのだ。昨年で一番大事なタイミングだったのに、そういう時に限って僕の能力は発揮されなかった。そのことがあり、夏休み明けの9月から12月の間、隆太と淳にヘタレと500回くらいは言われた。二人がジュースを飲んでいる時に僕が飲まないと
「慶太は告白もできないヘタレだからしょうがない」
 日本史を選ばずに数学を選んだ時も
「慶太は告白もできないヘタレだから、歴史を学ばない」
 というようなカタチでイジられていた。なんて平和な日常だろう。まさかこの歳であの頃は良かったと思う瞬間が出てくるとは思わなかった。

「おい、早坂」
 僕が昨年の夏休みの思い出に浸っている時に苦手な女性の声が聞こえてきた。太田綾だ。彼女は脳と口が直結しているのではないかと思うくらいストレートな表現を使い、話すスピードも早い。正直なんてレベルを遥かに飛び越えて、ただの空気を読めない発言をする怖い女性というイメージだ。
「おい、早坂。今日の数学の授業なのだが、カバンを確認したらテキストを忘れてしまったようだ。だから私の隣に座って欲しい。一緒に授業を受けたい」
 周りがザワザワしている。会話の一部だけを切り取ると僕が太田から好意を受けているように捉えられかねない状況だ。
 太田には借りがある。実は全く逆のことがあったのだ。塾のテキストをカバンから出そうとしたら、学校の数学の教科書が入っていた。僕があたふたしていると
「どうした。テキストがないのか」
 その時、隣に座っていたのが太田だったのだ。テキストを見せてもらえたおかげで授業を快適に受けられたのはありがたかったのだが、それから教室で会うたびに声をかけられる関係になってしまった。
 ちなみに僕はこの関係を認めた訳ではないのだが、太田の中で双方合意という言葉は存在しない。自分が言ったから、もう話は成立しているのだ。
「分かった。隣に座るからまた後で教室で合流しよう」
「何故だ。あと15分だからもう席を取って待っているのが普通だろ」
 15分あれば、ジュースをゆっくり飲んでトイレに行ってから隆太や淳からの連絡の確認が取れるくらいの時間はあると思ったが、そんなことを伝えても太田には意味がない。意味がないというか聞いてもらえない。僕は諦めて静かに頷いた。

 当然だが、教室はガラガラだった。太田は一番後ろの真ん中の机を選んだ。この場所を選択することは、僕も同意だった。選ぶ理由は違うだろうが、僕の場合は解法全体の流れを俯瞰して見ることができるのでプロセスの確認や計算ミスにも気づきやすいためだ。
「この席が一番良い。全てを俯瞰して見られるからな。問題を支配した気持ちになれる」
 太田の数学の能力は凄まじかった。問題を見た瞬間に方針が頭に浮かんでくるらしい。適切な知識を適切な場所で選択して解法の最短ルート導く。これはどうやら会話でも適用されているようだが、残念ながら会話に数学ほどの精度はない。
 太田を見ると勝手に僕のテキストを取り出して、今日の問題を腕まくりしてせっせと解いている。太田は運動をしているらしく、小麦色に焼けた肌が印象的なのだが、肩のあたりは驚くほど白かった。何だか胸がザワザワする。
「早坂、どうした。テキストは返さないぞ。流石にまだ問題が解けていないからな。それにしても今日の問題は単純すぎる。これでは私がたくさん勉強している意味がない」

 太田は祖母とは全然違うが、声のトーンが安定しているという部分では一致している。本当に単純な問題だと思っているのだろう。 
 しかし、実際に授業が始まると僕にとってはかなりの難問だった。僕のノートをとる手が止まるたびに太田は声を出さずに肩を揺らして愉快な顔になっていた。この問題で躓くであろう箇所のほぼ全部に躓いた僕はすっかり数学への自信なくすとともに、二度と太田の隣には座るものかと決心した。太田の横で数学の授業を受けると惨めな気持ちになる。

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