仮初の安全と声色の呪縛_16
(前話はこちらから_16/20)
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「先帰るわ」
「おう。病院いってらっしゃい」
淳に短いメッセージを送るとそう返事がきた。私立文系クラスの僕らはどんどん勉強する科目が絞られていき、専門性の高い授業が行われるようになっていた。僕は大学別の数学の問題を何問も解かされていたので、おそらく淳は大学別の日本史の問題をたくさん解かされているのだろう。選択している科目が違うため、淳とはほぼクラスが被っておらず、登下校と昼休みくらいしか会わない日も最近は増えてきた。それでも日常の面白い話や近況報告はちゃんと行なっている。おそらく、隆太からも大阪の面白いエピソードが送られてくると思う。
電車で病院に向かっている最中に隆太からもメッセージが届いた。
「大阪の大学最高です。かわいい関西弁の女の子がたくさんいます」
「それ、男子校に通っている高校生くらいしか言わない感想」
淳が正しすぎるツッコミを送信していた。電車の中で思わず僕は深く頷いてしまう。
「冗談だよ。予備校の先生に連絡をしてもらって教授と10分だけ話したけどすごくモチベーション上がったよ。でもキャンパスにいた女の子はみんなかわいかった」
僕は女の子の部分は全部無視して、隆太が教授と話せてよかったことを送り、祖母がいる病院の最寄り駅で降りた。
病室は静かだった。祖母は目に見えて痩せてしまい、あまり話さなくなってしまったから。最近は祖母と何かを話すのではなく、祖母のそばにいるだけの時間が多くなっている。僕はカバンを机代わりにして学校の授業の復習や予備校の授業の予習を行なっている。僕がノートに書く鉛筆の音すらも病室内では大きな音になる。迷惑かもしれないと思って祖母に聞いた時に鉛筆が走る音は好きと言ってくれた。だから、今の状態になっても僕は病室に長い時間いられるのだ。最近は、母も妹も祖母のこの状態が辛いらしく、あまり長い時間いられないようだった。1時間くらい経過した時に祖母が小さな声で僕に話しかけてきた。
「慶ちゃん、来てくれたのね」
「うん。おばあちゃん無理に話さなくてよいからね」
祖母は小さく頷いた。僕は勉強道具をしまって祖母の手をそっと握りしめ、聞こえているか分からないが祖母に話かけた。
「友達が大阪の大学に行くことを決めたみたいなんだ。いつもはチャラチャラしているんだけど、大学については真剣だと思う。中学からずっと一緒だったから寂しいけど、大学には受かってほしいと思っているよ」
祖母は小さく頷いていた。寂しい気持ちより応援している気持ちが僕にあることを知って安心してくれたのだろうか。祖母には嘘を言わないと決めている。というよりかは嘘を言っても仕方ない。祖母にはすぐにバレるから。
「慶太君、お見舞いご苦労さま。ふみさん喜んでくれていると思うよ」
看護師の近藤さんだ。すごく元気な方でハキハキとしている。祖母も信頼をしていて、僕らにとてもよくしてくれる。祖母も近藤さんが来ると少しだけ笑う。
「こんにちは。いつもありがとうございます」
僕も近藤さんのことは好きだ。よく祖母と会話もしてくれているようで、祖母も感謝していた。
「ふみさん面白いこと言っていてさ、こないだ慶太君と家で会ったって言っていたよ。夢でも慶太君のことを思ってくれているみたいだね」
僕はその夢を見ていないけど、祖母と繋がっていられることはすごく嬉しいことだ。僕は祖母の手をまた握り、目を閉じてしまった祖母の顔に笑顔を向ける。
「縁側で慶太君が珍しくお茶を飲んでいたらしいよ。静かに物思い耽る姿がおじいちゃんにそっくりなんだって。そうえば、せつさんから、病状についての共有を僕から慶太君にしてほしいと言われている。今から病室を出られるかな」
僕は静かに頷く。珍しく近藤さんが真剣な顔で僕のことを見ていたので嫌な予感しかしなかった。きっと母は僕に直接言うのが辛いことがあったのだろう。
僕は近藤さんと病室を出て、休憩室に行くことにした。タイミングよくこの時間には誰もその場にはいなかった。
「実はふみさんの記憶なんだけど…。この前までは5年分くらいの損失だったんだけど、進行している可能性が高い。今は、15から20年分は損失していると思う。具体的にどこの記憶が失っているかの明言は難しいんだけど、おじい様やせつさん、慶太君のことは覚えているので、それ以外の部分にはなると思う。ただ、確実に記憶を司る脳の機能が小さくなっているというのが今の診断結果となる」
僕は何と言えばよいか分からなかった。母には祖母の症状は全て共有してほしいと伝えていた。だが実際に聞くと、現実はあまりにも厳しく、非情であることだけしか理解ができなかった。
「教えていただき、ありがとうございます」
なんとか振り絞って出せた言葉はこれだけだった。近藤さんは僕の肩をぽんと叩き別の担当病室に去っていった。近藤さんがいた椅子を僕は静かに眺める。そこにいた近藤さんは今はいない。もしかしたら、もうどこにもいないかもしれない。今の僕には確認する術はあるが、祖母には失った記憶を確認する術がない。これはとても辛いことだ。
僕は病室を去る前に祖母に見てきた庭について報告だけしておこうと思った。
「おばあちゃんの家について一つ報告があるよ。こないだ渡してもらった鍵で庭を見てきたんだ。植物が自由に育っていて、おばあちゃんが綺麗に整えてくれていた時と大分様子が変わってしまった。友達で庭に詳しい人がいて相談したら今度、一緒に様子を見てくれることになった。もしかしたら綺麗にできるかもしれない」
祖母はしんどそうにしながら目を開けて僕のことを見ながら話してくれた。
「ありがとうね。縁側から見えるあのお庭がおばあちゃんは大好きなの。だから綺麗に保ってくれたら嬉しいわ」
僕は頷く。
季節は変わり、祖母の記憶は待ったなしに消えていく。だけど、祖母が愛してやまない庭はこれからも綺麗に保たなければと思いながら僕は病室を去った。