仮初の安全と声色の呪縛_17
(前話はこちらから_17/20)
↓
12月はすぐそこまで迫っていた。今日は予備校での高校3年のクラスを決める大切な模試のはずだったのだが、祖母が大切にしている庭が気になりすぎて、国語のテストはほとんど手がつかなかった。この秋から急激に伸びた英語と数学については問題なく解けたのだが、最後の国語については評論の議題が『看病』についてのもので、一気に集中力がなくなってしまった。おそらくひどい点数になっていると思う。
「太田は今日の模試どうだった」
「どうもこうもって感じかな。特に分からない問題はなかったけど、ケアレスミスは多そう。特に最後の国語については、早坂のおばあ様の家の庭を早く見たくてすぐに終わらせてしまった」
「なんか申し訳ないね。大事な模試だったのに…」
「全然。私が望んでこの場所に来ている訳だから気にしないで。どうせ早坂も国語は散々なんでしょ」
太田はニヤニヤして僕の方を見ている。図星だったので、僕は特に返事もせずに祖母の家の扉の前に立った。鍵を差し込むと寒さのせいなのか少しだけ鍵の回りが遅く感じた。
家の中は人の温もりが全くないためか、ひどく寒かった。しかも低い気温にもかかわらず夏までに溜めた湿気を家の木々たちがゆっくりと吐き出しているようでベタベタする。
「大分、傷んでしまっているわね。でも、素敵なお家ね。私はとても気に入った。こんな素敵な場所で育てば早坂みたいに優しい人になれると思うわ」
太田が寒さも湿気も気にせずに、まず祖母の家を褒めてくれたことが嬉しかった。この家の空気をたくさん吸って、ここで祖母と過ごした時間は僕にとって、とても大切なものだから。そして今も僕の大切な場所になっている。
「ありがとう。でも、さすがにちょっと寒いね。空調は掃除をしていないから使うのが厳しいと思うから、温かい飲み物を用意するよ。まずはこの場に馴染まないと」
今はこんな状況だが、本当に素敵な場所なので祖母に代わって太田をしっかりともてなしたかった。台所と居間はつながっているので、僕は太田を祖母が座っていた場所に座らせることにした。太田は静かに僕がお茶を作っている姿を眺めたり、居間に飾ってある祖母の絵であったり、祖父が出張先で買ってきた不思議な置き物を眺めていた。
「素敵な人ね」
人?と思いながら僕は太田に答える。
「そうだね。すごく落ち着く家だよね」
「早坂、どうしたの?確かに落ち着く家だけど私は何も言ってないよ」
また、例の空耳か…。
「素敵な人ねって声が聞こえた気がする」
太田は怖がるよりも、褒められたことを嬉しそうに頷いた。
「それはとても光栄なことね。褒められるのはいつだって嬉しいものだから」
「空耳だったらごめんね」
なんか会話が噛み合っているようで、噛み合っていない気がする…。
引き続き僕はお茶を用意した。湯呑みは来客用のものはたくさんあるのだが、何となく祖母のものを使っても良い気がしたので太田にはそれでお茶を出した。
「早坂がいれたお茶なのにとても美味しい。湯呑みも素敵ね」
「そうだね。お茶なんてほとんどいれたことないよ。でもおばあちゃんは食器だったり、お茶っ葉だったりはかなりこだわっていたから僕がいれても美味しいはずだよ」
僕も飲んでみたが祖母がいれるお茶よりは全然美味しくなかったが、十分だった。
体が温まってきたので、僕は前回同様、全方角の窓を開けることにした。滞った空気の流れをいつもの祖母の家の流れに戻したかった。太田も手伝ってくれたので前回よりもスムーズに空気の入れ替えを行うことができた。家にある書斎や寝室、客間や仏間など太田は注意深く眺めては、とても趣味が良いと祖母のことを褒めていた。僕なんかと話すよりも太田と話をした方が祖母も楽しいのではないかと思ってしまうほどに。
そして、祖母といつもそうしていたように縁側に太田と座った。縁側からはいつもの庭が見える。整備はされていないので、冬の寂しさの解釈は一切ない、ただ寂しいだけの庭になってしまっている。それでも太田は満足そうにその庭を眺めている。僕は庭の良さは分からないので、お茶を飲みながら太田が話し始めるのを待つことにした。ここで祖母と色々な話をした。祖母の若い頃の話をもっと聞いておけばよかった。そうすれば太田と何を話すべきかも想像できたかもしれない。
「早坂、この椅子に座っている女性は誰だろう?」
太田は何を言っているのだろう。僕が椅子を見るとそこには女性が座っていた。
「えっ」
座っている女性はおそらく20歳くらいだと思う。母が若返ったような、ゆきが少し歳をとったようなそんな女性だった。何となく太田も気づいているようで、この女性はおそらく祖母なんだと直感的に理解できた。
「人の家でデートってどんな気持ちなの」
その女性は僕に聞いてきた。突然の質問に驚いたが悪意を感じないので僕は返答することにした。
「デートではないですね。家主が入院をしてしまったので、孫の僕が家や庭の世話役を任せられているんです」
その女性はにこにこしながら頷いている。
「初耳のはずなんだけど、そのことは知っているような気がする。すごく不思議な感覚。それにしても縁側にいるあなたの横顔、とても素敵よ。惚れちゃいそう。でも少し遅かった。残念ね。もう決めた相手がいるのよ。横顔が君にそっくりで、もう少し年上の人なんだけどね。名前は龍太っていうのよ。君というのもあれだから名前を教えてくれない」
その女性は僕の祖父の名前を言っている。やっぱり祖母だ。正確に言うと祖母の記憶なのかもしれない。
「僕は慶太と言います。慶太の太は太いという漢字を使っています」
「あら素敵な偶然。龍太と同じ字を使っているのね」
それはそうだ。僕は祖父から一文字もらっているのだから。太田も察しが良くこの人が祖母だと確信をしている顔をしていた。僕らは二人で頷きあった。
「この庭はもっと素敵になると思いますが、どうお考えですか」
太田が急に祖母に聞いた。
「そうね。ちょっと荒れちゃっているわね。整備したい気持ちはあるんだけど…。どうもこの家から出られないみたいで。困ったものね」
「そうですか。ちょっと時間はかかってしまうかもなのですが、私が必ずこのお庭を整備します」
若い祖母は笑顔で頷いている。
「申し訳ないわね。私ができればとは思うけど、その言葉に甘えさせてもらうわ。お嬢さんお名前は」
「私は太田綾と言います」
祖母は庭を眺めながら太田の名前を吟味しているようだ。整備されていくであろう庭を想像しながら。僕らはしばらく無言でお茶を飲み、その時間を楽しむことにした。
「僕たち、そろそろ行きますね」
僕は若い祖母に伝える。
「そうね。また遊びにきてね。あなたたちと話すのはとても楽しいわ」
僕らは家の戸締りをして祖母の家を出た。駅に向かう途中に太田が僕に言う。
「早坂、すごい体験だったね。感動で声が出なかった。でもちゃんとお庭を綺麗にしないといけないね」
「うん。一緒に来てくれてありがとう。僕だけだったら怖くて逃げ出すだけだった」
「私も早坂がいなかったら走り出していたかも」
当然だ。普通は何も考えずに走り出して逃げる事象だと思う。あまりにも自然に若い祖母が椅子に座っていたから対応できただけだ。
「私が見た庭に写っている写真だともっと小さい女の子だったけど、私たちより少し年上だったね。私の見間違いだったみたい」
「そうだね」
僕らはこの不思議な体験を悪夢ではなく、素敵な現実と捉えて各々の家に帰った。