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仮初の安全と声色の呪縛_13

(前話はこちらから)


 祖母の病室から出た僕は、病院内にある喫茶店で祖母を忘れない方法を考えていた。人の記憶が薄れていくことは仕方ないことらしい。てきとうに開いた記事を見る限り最初に失われる記憶は音、つまりその人の声らしい。悲しいが、もし祖母が話せない状態になってしまったら、声を聞く機会はなくなってしまう。声を忘れると、話した内容が曖昧になってしまい、音で覚えていたニュアンスが崩れていき、記憶の輪郭が曖昧になっていくとのことだ。
 自分で『記憶 失う』と検索して記事を読んでいたのだが、対策らしきものは書かれておらず、ただ事実だけを突きつけられる結果となってしまった。落ち込む。

「早坂君?」
 太田の声が聞こえたような気がする。ただ、太田は僕のことを『はやさかくん』とは呼ばない。いつだって呼び捨てだ。
 僕は記憶について調べなければならない。祖母を忘れないために、僕ができることを一刻も早く見つけなけれれば。この瞬間にも祖母の記憶は失われているのだ。
「早坂君!」
 僕は肩を叩かれた。振り向くと太田がいた。そして太田の後ろには、おそらく太田の母親らしき人もいる。
「太田…さん?」
 早坂君と呼ばれたので、呼び捨てにせず『太田さん』と言えたと思う。何も知らないが、何となく太田のお母さんは礼儀作法に厳しそうな気がしたので、軽く頭を下げた。
「お母さん。この人は予備校で同じ授業を受けている早坂君。とても優秀で数学の勉強に熱心に取り組んでいるの。休んでしまった予備校の授業内容について聞きたいから少し話してから帰りたいです」
「分かったわ。先に車で待っているから、早坂君と話していきなさい」
 そう言うと、太田の母親は駐車場の方に向かっていった。二人だけの時間。予備校での発言や態度の謝罪。今のこの状況。話すべき事はたくさんあるが言葉は何も出てこなかった。太田も同じようで、この状況を作ったが何を話すべきか困っているようだった。

「おばあちゃんが入院したんだ。お見舞いに来ている」
 久しぶりの太田との会話の初めに言う言葉として正しいのかは分からないが、まずは僕が病院にいる理由を伝えるべきだと思った。
「私は通院している。今、話しかけて分かったけど早坂君と二人の時は普通しゃべれるみたい。人によっては防衛本能が働いて、変な喋り方になってしまうことがあるの」
 確かに予備校での太田の話し方は独特だ。本当の軍人がどんな話し方をしているか分からないが、どこか軍人のような話し方だと勝手に感じていた。
「あまり聞いてよいことか分からないけど…」
 太田が目を閉じながら頷く。おそらく聞いても良いということだろう。
「防衛本能と通院が関係しているということだよね?」
「あまり詳しくは話したくないけど、そうなるね。信頼できる人とそうでない人がはっきりしていて」
「話してくれてありがとう。実はおばあちゃんのお見舞いをしている時に太田…さん」
「太田でよいよ」
「じゃあ、僕のことも早坂でよいよ」
 普通に話せても結局、苗字呼び捨で呼び合うことに落ち着いて、ふたりは一斉に笑ってしまった。
 太田が何の病気かは分からないが、僕といる時は普通に話せるらしい。それを知ると、なぜ僕の隣に座ろうとしたのかも納得ができる気がする。
「なぜ、僕とは普通に話せるのだろう?」
「どうしてだろうね…。予備校で隣に座って、何でもない会話をするなかで、恐怖心がなくなっていく感覚があったのは間違いないかな。後、素直に数学と向き合って、できなくても諦めない姿も尊敬できるなと思っている」
「実際は、太田の方がすごいけどね」
 この言葉で二人が連想したのは、借り物の言葉で酷い事を言って、あの場から立ち去った予備校での僕の姿だった。

「あのさ」
 太田が話し始めようとしたが、僕は手で話を止める。
「あの時は本当に申し訳なかった。僕自身の言葉で太田と向き合えばよかったのに、思っていることと全然違う事を言ってしまった。本当は太田のおかげで数学が楽しいと思えるようになったし、好きになれたのだと思う」
 なぜか太田は涙を流しながら笑っていた。
「あの時、私がどれだけ悲しい気持ちになったと思っているの。今、話してくれてよかったよ」
「ダサいよね。他人の言葉で太田を傷つけるなんて…」
「本当だよ。ダサい」
 太田がまた笑ったので、僕も笑ってしまった。世界で最も許せるダサいという発言だ。時計を見ると結構な時間、話をしてしまっていた。
「お母さん待たせてるでしょ」
「そうだった。行かなきゃ。早坂と仲直りできてよかったよ」
 それは、僕のセリフなのだが…
「また予備校でも会えるかな?」
「そうだね。誰かさんと仲直りできたから行こうと思うよ。私は変な喋り方の時は繊細なんだよ」
「うん。何となく分かった。細かい事も聞かない。本当に声をかけてくれてありがとう」
 太田は笑顔で駐車場に向かっていった。
 自分の言葉で久しぶりに話して、どっと疲れたが太田という友人を失わなかった満足感に僕の暗い気持ちは少しだけ晴れた。
 

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