桜の樹の下には、学校が埋まっている。
そんな風に取っちまったデータは、そこら辺に木みたいに生やしたり、光らせたりしておくくらいがちょうどよい。戯言です。
界隈で評判芳しくないこの記事を読み、なんだか悩んでしまいました。
「聞いているふりは通じない」なのか、「絶対ちゃんと聞かせてるは幻」なのか、「たいして聞いてなくても案外できるもんだ」なのか。
何を意図するかによっても印象が違う。「集中しろやオラァ」ということなのか?
記事の事例なんて素直な表現だからかわいいもので、ほとんどの人が嫌悪や反対すると思うのです。
例えばこれ「脈拍の変化をとってその日のこの学級のお天気を光と音のアートとして出力しています」みたいな表現の形になっていたら、みなさんはどう評価されるのだろうかとふと気になりました。
学習者のメンタル系?バイタル系?のデータは、某プラネタリウムもやってる電機メーカーあたりが、アートと絡めて使ったらいいんじゃないかなぁなぜそうしないのかなぁって昨日まで思っていたのだけど、ちょっと今は違う気持ちも湧いてきた。
イメージしてみるとこんな感じ?
サイコフレームの光が!とかってすぐ…。
「いやぁ今日の授業、光っていましたねぇ!」みたいな協議が…。
ちゃんと、アートの皮を被ったディストピアだって指摘してくれるでしょうか?
光るのが楽しいから、学習者が進んで着用するからセーフ?どうなのでしょうか。
一方で、教室には、(なんか淀んでんなぁ…)と感じてしまう時間が存在している。それが教師の気のせいなのか、現実であり達人の感性なのか、そういったものをデータで確かめられるようになっていると一呼吸おける気もしている。実装されたら依存して余計焦る図も見える。「おいおまいら、集中さがってんぞ!」と。
そんなの深呼吸で十分という説も。
先述の記事の事例に戻る。
私は、この事例であればせめて教師も端末をつける。なんなら参観者も端末をつけることが望ましいように思う。
そして授業後、それぞれの変化のデータを突き合わせて、子どもたちと一緒に何かを検討することで、開けてくる世界があるように思える。
一方で忖度バキバキのICT利用ルールづくりの主体放棄の話し合いみたいな失敗の姿も見えてくる。
シンクロ率でアクエリオン?
主体として自らの利益のために自分のデータを提供する。
この姿を学校でどう実装できるのだろう。
今もアンケートを提出しない子に対して、先生たちは何をしているでしょうか。
鉛筆や端末を無理矢理持たせ、無理矢理言語や数値で答えさせていないでしょうか。
これは現象、身体的データをとること以上に意志や認識に働きかけているという点で、虐待的ではないでしょうか。
今回の騒ぎを機に、そこまで戻って再検討されることを私は望みます。
しかしまぁ。
取ってしまったそういうデータはそこら辺に生やしとく、光らせとくくらいがちょうどよいかもなぁとも。戯言です。
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