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「学ぶ」故にわれあり

学ぶことも、読書をすることも「人の頭を借りる」ことだから、「自分が無くなる」という言説に出会ったことがあります。いやいや、それはないでしょう!と声を大にして言いたい


確かに、学び、読書"ばかり"やっていて、行動が全くなければ「頭でっかち」と言われることもあるでしょう。しかし、実際に何も役立たない「頭でっかち」なのか?と言えば、そうでもない。

だって、「頭でっかち」と認定されるということは、その知識や何かを発露していなければ言われませんよね?ずっと脳内に留めていれば「見える」訳がない。何らかの方法で発露/発信したからこそ言われるということ。

そうであれば、脳内に入り込んだ知識や情報が何らかの形で生成され、まとめられ出てきているということ。そこに耳を傾ければ「何らかの考察の結果」や「意見」、「整理された情報」があるはずです。

ただただ「だだ漏れ」で、コピペを続けていれば別ですが、そうではないでしょうから。

となると、やはりその中心にあるのは「自分」。その人が間に介在しているんですよね。


同じ論理で、他人の言説や学び、情報収集の傾向、読書などからもの凄く影響を受けることがあるでしょう。全く別の意見を聞いて、ふらふら揺れ動く脳内・・・ということも考えられます。

しかし、その揺れ動いている「自分=われ」こそが確実に居るんですよね。


逆方向から考えると、全く学ばず、意見も聞かず、情報遮断状態で「自分の脳内だけで思考する」それがオリジナリティがあるかというと、無い可能性も高い。自分だけでうんうんうなって考え出したとしても、それは既に誰かがとうに考え付いたことかもしれない。確かに自分にとってのオリジナルで、セルフで考え出したこと。そこに「価値」はあるけれど、世間的にはそんな区別はありません。

やはり、「価値ある情報」「使える情報」何らかの刺激や、感動や役立つものが重用されます。それを生み出すなら学び、情報を仕入れ、それをベースに構築していくこと。既にある技術を上手く活用したり、組み合わせること。

いくら「イノベーション」でも、ゼロからではなく、最小単位でも1+1くらいはあるのではないでしょうか?


読書でも同じで、全く同じものは存在していません。似たようなキャラ/ストーリーが展開されることがあっても、二匹目のどじょうを狙った作品があっても、やはりそこは表現方法の違いや、言い回しの違い、少しでも差異が存在し、その差異からでも学べることが出来る。

その僅かな差異、隙間からでも多くのことを学べるんですよね。


以上の理由で、私としては学ぶこと、読書すること、人の意見を聞いたり、情報収集することは絶対的に是であり、自分というものが形成されるのは「一人で全てを育み、構築する」のではなく、人の力を/成果を/知見を借り、その断片を使って構築していく/存在していくのだと思います。

私は、私たちは、我々は・・・世界の様々なものから構成されています。存在しています。

なので、「学ぶ」ことに因って「我」が存在するというタイトルに繋がります。

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神屋伸行/加古川優考塾/走遊Lab代表
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