批評の虚無—目標ではなく、手段が欠けている

 虚無的な生活。それは、言ってしまえば、目標意識の欠如から起きるように思われる。しかし、現在-手段-目標のうち、手段が欠如していてもそれは訪れるように思われるのである。例えば、日本の人文学、批評における領域で、高卒の人間が活躍出来ないという問題意識。これは、端的に言って手段の欠如である。しかし、世の中の自己啓発的な主張は、目標の欠如に主に重点を置いている。現代においては、社会的に致命的な手段の欠如という側面に光を当てなければいけない。

 例えば、「批評を書く題材がない」という問題は、端的に言って目標の欠如であるかのように思われる。しかし、ここでは、むしろ目標がある為にこのような悩みが生じている事に目を留めなければならない。即ち、例えば、自分の文筆力の発揮であるとか、生活手段としての評論収入の確保であるとか、である。本来の目標がそれであるのに対して、文筆は全く別の事を我々に訴求する。即ち、社会に訴えたい事を訴えろ、という事である。

 私が、以前、週末批評という批評サイトに寄稿用原稿として送り付けた評論、「【評論】表層を超えて:『あいつら全員同窓会』によってもたらされる「沈黙」」は、要約するとこのようなものだ。即ち、『あいつら全員同窓会』という、若者の間で人気の曲が、本質的に訴えている事は強者によるメッセージにしか過ぎない事で、それは若者の実際に全くそぐわず、大変つまらない曲である事。それを示した原稿を送ったのだが、当然のようにリジェクトされた。

 リジェクト理由で言われていたアドバイスで、気になった事があった。それは、この批評が扱っている問題の狭さへの指摘だった。即ち、この批評は、資本主義的な勝ち負けのゲームを批判対象と出来るのに、していない。作曲者を攻撃対象としているが、もっと大きな問題を扱うべきだ、というものだった。もっともな事だ。こちらが何故それをしなかったのかという意図への推察は、当然なされていないのだが。

 意図とは、以下である。人文系の言論において度々なされる資本主義、労働におけるアンチテーゼというのが、自己満足か、プラスアルファ程度の効力しか発揮していない事。そうでなくても、週末批評に載せる文章に、たかが僕が資本主義批判、社会批判の文章を載せたところで、実社会に全く影響を与えられない事。それに対して、この作曲家に「フェイク」認定をするだけで済ませるなら、それなりに支持者が不快になる程度には影響が発生する事。僕が本来、評論に期待しているのは完全にそれであった。

 例えば、思想家などを学ぶ事は、それを知識として保有している人間が、独自の文化圏-言語圏を築き、外部を排除するシステムとして優れている。もしくは、自分独自の、深い言語を持てるという利点もあるだろう。しかし、いずれにせよ、そのような議論で、一部エリートがますます深い言語を持つ事により、逆に民衆との対話が不可能になっていくという問題意識はないのだろうか。丸山眞男やら、ドゥルーズやら自体を論じたところで、丸山眞男の著作を読んでいるごく一部にしか通用しない議論をしている自覚はあるのだろうか。そういう意味で、もっとも現代で評価されている作曲家の作詞をこき下ろすという、純粋に炎上系YouTuberと対して変わらないような評論ぐらいが、我々がもっとも世の中に出来ること-通用すること-だと思ったのだ。

 扱うべきなのは、問題であり、思想家は手段でなくてはならない。なのだけど、扱うべき問題が資本主義とかになってくると、思想家を3人だか5人だか登場させて立ち向かおうとする事自体馬鹿らしい。すると、どのレベルの問題なら、我々素人批評家レベルで扱えるかとなってくる。お気付きだろうか。全くないのである。そんな程度の問題は。問題がないのではなく、問題を解決する為の手段を持つ問題がないのだ。

 手段を持てる問題がない。その致命的な問題の解決策に対して、批評界隈が取っている手段とは、端的に言ってひけらかしによる誤魔化しと、独自言語を発達させ問題自体を回避しているという事のみである。一般人が追い付ける議論とは、あくまで一人の思想家について書かれている入門書程度のものであるという事実を小馬鹿にするかのように、訳の分からぬ思想家の引用まみれの衒学仕草、その癖、論理性の放棄。自らがやっている言論が、世界で何も通じないという一番の問題からずっと目を逸らし続けていた。

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を褒め称える人は、あの本の読書メーターの感想欄をざっと見た事があるだろうか。結構な人数が「半身で働く、それが出来りゃ苦労しねーんだよ」的な感想を寄せていたのを〈私は見た〉。 文芸評論家で飯を食っている人間が、人様に「半身で働けば、いいんじゃないすか」。こんなものは、ハードな肉体労働者などが聞いたらブチ切れて終わるだけだろうな、という気がするのだけど。というか、実際に読書メーターでキレている人はいた。

 浮世離れしたエリートの大学生が、例えば障害者などの苦しみを無視して、それでいて浮かぶ問題意識って、実にくだらない。それは、手段が欠如しているし、そもそもその人達にとっては大した問題ではない。文芸評論家で、一日一冊私は読めているんですが、という前提から発出する問題意識って本当に問題意識として純粋なのか?そこに優越感が伴っていないと何故言い切れるんだ?ならば、むしろ文芸評論家のなり方を教えてくれ。それで生活を成り立たせる方法を。「文芸評論の書き方」じゃないよ。「文芸評論で飯を食っていく、極めて実際的・社会的なテクニック集」を売る方がよほど誠実だろう。

 とはいえ、僕は頑張って環境に適応しようとしています。ひけらかしの為の引用を沢山して、頑張って評論家になろうと思います!それでは!

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抜こう作用
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