三位一体論に関する拙論
三位一体論に関する理解が更に深まったと思うので共有したい。僕は、今日の教授との面談にて、言語の性質(apple)を言い表す時、音声とイメージが同時に提示される事を用いて説明した。それに対して、ひとつのものが多元的だというのは、東洋思想においてのベースで、三一論が上回っている事はない上、イエスという媒介者は階級社会の為のものだ、という反論を受けた。これに対して、出村和彦「アウグスティヌス 「心」の哲学者」を読んでいて、ひとつの反論が思いついたので、記したい。
まず、反論の主な点は、「ひとつのものが多元的だというのは」というところだ。これだと、多神教的な考えも成立するが、ここが違う。明確に多元ではなく、3という数字を取らなければならない。例えば、二元論というのは、「私とあなた」である。これに対して、一元論は「私だけ」なのである。ところで、私があなたと関わるには、普通、言語を介さなければならない。言語なしでの私とあなたの関係は成り立たない、ここでいう言語とは別にジェスチャでもいいのだが。つまり、「私とあなた」の間に媒介者が必要なのである。繰り返しになるが、ヨハネ一章を引用したい。
そして、イエスの教えはこれをクリティカルに表現している。
つまり、「ロゴスは神」で、「ロゴスはキリスト」なのは、「私と神」においての媒介者として、イエスがいるということだ。これは、「私とあなた」においての媒介者として、「ロゴス(=言語)」が要求される構造と同じである。ここで、哲学を先行させて考えると、旧約の神にしろ、本質は言葉として預言者に降ってくる考えである。しかし、ここで問題が生ずる。この媒介者である言葉は、我々の頭の中でしか存在していないことだ。偽預言者のように、騙ることもできてしまう。つまり、この媒介者であるロゴス、即ち「神から降ってくる「言葉」」を歴史的・肉体的に世界に顕現させたのがイエス・キリストである。これにより、イエスという実存を通して、我々は、直接的な神との繋がりという真贋怪しいものから解き放たれ、イエスの信頼に依存する形で、父なる神からの言葉を真のものとして受け取ることが出来るということである。つまり、「わたしと神」との間に成立する「言葉」は、人として顕現する必要があったという結論である。人であるから、対話が成り立ち、その対話は確証があるものになる。ということだと思う。
媒介者という存在が、階級社会にどう寄与したかは、今扱えるような問題ではなく複雑なので、ここでは控えたい。
【追記 2024/10/23】
つまり、私-言葉-神によって、神-神-神、となるのが三位一体論である。聖霊は、私の中に宿る神であるが、この時の宿るというのは、まるで体の一部位になるかのように宿るのであろうか。否、神が体に包摂されるというのはおかしい。重要なのは、神という外延と、言葉であるキリストという中間体と、主体であり内包である私は、本来一体であり、神であるという事だ。しかし、聖霊は、父なる神と子によって放射されたものである事に留意しよう。我々そのものが単独で神性を持つのではない。
参考文献
アウグスティヌス――「心」の哲学者 (岩波新書)