最も良い実を結ぶキリスト教神学とは:原罪論と救済論を考える

※著者は神学を専攻で学んだ事のない無教会主義クリスチャン一信徒であり、あくまで素人の個人的な見解になります

 キリスト教の教義に「原罪」というものがある。原初の人間であるアダムとイブは、知恵の樹の実を取って食べたので、楽園追放され、人は死ぬようになった。こういう話である。キリスト教会の中では、特に福音派などは、アダムとイブの罪の「遺伝」などというロジックを使用している。これに対して、罪が遺伝するのか、という指摘がある。この場合、原罪というのが従来の、刑法における罪とは言い表している事が違う事を理解すべきだ。そして、遺伝という説明も本質ではない。本質的には、原罪論とは、我々は罪を持った種族である、という一つの世界解釈である。

 我々は罪を持った種族とはどういうことか。それは、我々は、本来、善悪を識別し、自由意志の元に善も悪も行える立場である。これは、善悪の客観性や絶対性というよりは、個人個人が自身で善悪の区別をつけ、且つどちらをも選ぶ事が出来るという事だ。これが旧約聖書、エデンの園のエピソードで示されている基本的な人間理解である。もし、我々の識別している善悪が、文化ごとによって差異があっても、根幹部分が同じであるかもしれないし、もしくはそれぞれが完全に違った善悪観を持ち合わせているかもしれないが、少なくとも、秩序が維持できる程には、善悪の基準はバラバラではないと言える。つまり、ここで示しているのは、仮に、善悪が完全に後天性なのだとしても、社会秩序が機能している上では、結局、善悪の識別は多数が出来るようになるということだ。

 ここで問題なのは、我々が善悪において、悪を選びやすい性質を持つという事だ。これをキリスト教では、サタンの介入で説明する事もあるし、人間自身の性質で説明する事もある。エデンの園のエピソードに戻って、我々は、「神の命じた定めを破る」という悪を犯した所から、目が開かれ、善悪の区別が着くようになった。これは、悪を知る事によって、善で満ちていた人間に、相対である悪が生まれたという事だ。つまり、我々人間は、原初の時点で既に悪を犯すところから始まった、という人間理解である。キリスト教徒であるかどうかは関係なしに、「天使と悪魔の葛藤」という事態が生じる。例えば、ダイエット中に、ケーキを食べたい。「ケーキを食べちゃダメよ!」という天使と、「食べちゃえよ〜」という悪魔が頭の中で戦うのは、実際に体験した人は多いだろう。この原罪論で言われているのは、つまるところ、ここで悪魔側を勝たせてしまいやすいということである。そして、善と思う行為も行うのは大変だ。怠惰にスマホを触って、勉強出来ない、等。

 これら一つ一つは大した事がない。ただ、これがもっと大きな問題になってくる。SNSでの誹謗中傷、不倫、暴力、これらは悪行だが、少しの災害寄付も躊躇う、勇気を持って虐めを止められない等、善行を行うのも難しい。それに対して、人間とはそんなものだと開き直るのもまた一興だが、誠実な人の多くはこの悪の性質に悩むだろう。また、実は、ケーキを我慢せずに食べてしまったり、怠惰にスマホを触っていたりと、誘惑に負けているのは、その実、大きな悪への誘惑にも負けやすくなるとも気付くだろう。根幹的に人間は悪を選びやすいという性質を認め、自分もその一人であるという事を認める。これが、我々に原罪があるという事である。

 さて、キリスト教(内部で通用する)論理では、例えば、この原罪によって、我々の救いは取り除かれたと説明する。キリスト教論理でなくても、一般的な天国・地獄の考え方なら、我々が悪行をしているなら地獄行きで、よって我々全員地獄行き。至極当然の話である。無論、この現状を、それぞれで解決しようとするのが宗教で、ここまでの理論は、仏教でも本質的には似たような事を言っている。そこで、キリスト教における解決は、キリストによる贖罪である。この贖罪とは、神の子・イエスが、全ての罪(つまり、人間の悪の性質)を神に対して償う為に、十字架によって死んだという事だ。ここから、教派による解釈が別れる。ザックリ言って、①行為義認②信仰義認③万人救済である。左から順に、①イエスの贖罪信仰と共に、善行を行えば救われる②イエスの贖罪信仰のみで救われる③イエスの贖罪によって万人が救われる、という立場である。私は個人的には万人救済であればいいと思うが、恐らく、行為義認が現実である。

 「行為義認が現実って、それはイエスの信仰がなぜ必要なんだ?善行だけでいいんじゃないか?」という人には、一応、理論の用意はある。それは、キリストが原罪の為に死んだという事を理解しない上では、本当の善行は行えない、という理論だ。もしキリストを信ぜず行う善行は、常に神の為の善行ではなく、利を求める善行になる、という説明になる。キリストの信仰によって、何が得られるかというと、聖霊である。これは、いわゆる直観的な定言命法であり、善を行うように我々を導いてくれるものだ。これが我々に示された神の愛である。つまるところ、キリストを信じる事によって、神の愛を受け取り、罪の傾向と戦い、悪の誘惑に立ち向かい、常に善を行いたいと心掛ける。これが原罪論の意義である。

 ただ、行為義認が現実である事と、それを公然と掲げるのが良いかは疑問が残る。もし、信仰義認なら、救いはキリストによって既に得られたので、何をやっても良くなる、と批判する人がいる。しかし、キリストによって私の罪の対価が支払われた事を受け入れる過程で、悔い改めが必要なので、現実的に悪行を率先して行う事は考えられない。問題なのは、キリスト者だけが救われる事に満足してしまう精神性にある。行為義認も、キリストの信仰は必要であるので、同様の問題を孕む。そこで、究極的には、全ての人が救われるように《祈る》という意味での、万人救済主義になる。実際に、どれだけの範囲で救われるかは、我々がどのような主義を取るかに依存しない。それは現実である。もし、キリスト者のみが入れる天国が気に食わないとしても、そのような天国はないと信じていれば、何ら問題はない。それと同じで、実際に万人が救済されるかという事は、究極的には分からない。ただ、個人的には、行為義認で、自らの行為を徹底して善を目指す。これによって、自ら普遍性を持った立派な人間になれる。ただ、究極的には行為義認も正しいかは分からないのだから、万人が救済されるよう神に祈り、また彼らもきっと救済されるだろうと希望を持つ。これによって、隣人との友好的な関係も築く事が出来る。このようなキリスト教義解釈が、最も良い実をもたらすと思う。


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抜こう作用
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