階段
この作品は2017年に書きました。世の中や社会そして自分自身に対する絶望をそのまま荒くストレートに吐き出して書いていきました。この時と現在との私自身を比べてみると、状況はあまり変化していないかもそれないし、むしろ悪化しているのかもしれません。しかしながら今日も私は生きています。納得できないことばかりだし、わからないことばかり、自分自身に対する嫌悪感を強く感じることもあります。しかしながら、そういった葛藤や苦悩をすべて受け入れたうえでしか、新たな道を見つけることはできないとも感じています。2017年に書いたこの時の心情そして言葉は紛れもない私自身であり否定するべきものではなく私自身の一部なのです。何が言いたいのかというと、絶望を感じるときはそれをストーレートに吐き出してもいい。そしてその状況をいつか受け入れ、肯定できる日が来るということです。前置き失礼いたしました。
【階段】
「意味なんて考えちゃいけないよ」
彼はそう私に語りかけた。
完全なる闇。果てしない階段。私達は階段の入り口に立って居た。そこに私の意思などない。機械的に私はそこに存在しているに過ぎなかった。
彼はそういうと、恐れなど知らぬ力強いあしどりで、階段を登り始めた。私は彼の後ろを機械的につづいていった。なぜか、よくも知りもしない彼を、信頼しきっていたし、それは実に軽率に見えるけれども、何か根拠のない確信のようなものがあった。まるでそれ以外選択肢を持たぬような心境であったと言うべきだろうか。理由はともかく、私は彼のあとに続き、果てしない、階段を登り始めた。そうすることはもはや義務的なものであるかのように。
なだらかな階段だった。たいていの人であれば登るのに苦労はしない。一段一段ながら、たしかに私達は階段を上った。そこに会話はなく、私と彼の息遣いがかすかに聞こえるだけだった。
まもなくすると、簡素で、質素なドアが目の前に現れた。そのドアの存在にわたしは、1、2メートル前まで気がつかなかった。目の前は果てしない暗闇に覆われていたからだ。のちに気づいたか、それは後方も同じであった。私たちは前後どこを見ても暗闇に包まれてる。ただ確かなのは、足元に階段があること。そして、彼の存在だ。
疲れたかい。
彼は明るい口調でそう私にたずね、長らくの静寂をやぶった。その顔はどこかあどけなく、純粋な澄みきった目をしていた。
わたしは静かに首を振った。
大丈夫。
それを聞くと彼は満足げな表情を見せ、再び歩き出した。
私たちはどこか似ていた。見かけは全く違っていたし、彼はわたしよりもだいぶ若く、声はまだ声変わりの途中であるかのように少し高かった。体はきゃしゃで、痩せていた。青年と少年の狭間に彼は存在しているようだ。しかし、どこか、そう本能的に私たちは似ていると私は思った。彼を見ていると自分の幼い頃を見ているようで、ひどく懐かしさを覚える。淡く黄色掛かったスクリーンに映るフィルム映画の映像でも見るかのように私は自分の幼少期を振り返った。何も疑わず、白痴ながらも無垢な心。世の中はカラフルで、未知なものだらけであった。そんな自分の姿を私は少年に重ねて見ていた。ただ、今の私は彼の持っている何かが欠けているのを感じた。ただそれが何かはわからない。そのことが、私を少し不機嫌な気持ちにさせた。
ドアは一定の距離をあけて、次々と現れた。彼はドアを開き、私が閉める。彼が開くドアの先にはまた、登り階段があり、果てしない暗闇が広がっていた。
僕たちはしばらくそれを繰り返した。そう長くはない間、階段をのぼり、突如現れるドアを開くそして、また暗闇へ階段を登って行く。
彼は楽しそうだった。時にわたしを元気づける。彼は突如階段の途中で立ち止まり、私の方へ振り返り、こう言った。
「君はこの階段の先になにがあると思う。」
「わからないな、見当もつかない。第一なぜ私がこんな暗闇の中、果てしない階段を登っているのか理解すらできない。けれども君は私に意味は考えるなというのだろ」
私がそういうと彼は何も言わず暗闇の中のどこか遠くを眺め始めた。
「少なくとも君は誰なのか教えて欲しい。」
「知ってどおするんだい。知ってどうするのか僕はあなたにお聞きしたい。知ったところでいいことなんか何一つないと僕は思うんだ。知るということは多くの場合、僕たちに絶望をもたらすんだよ。知っていることが少ないことを愚かというのなら、愚かさは僕が思いつく限り、人が幸せになる唯一の方法だ。」
「じゃあ、君は私がこの状況を知るということが、私に絶望をもたらすと言いたいんだね」
「多くの場合、そういうことになるね」
彼は何のためらいもなくそう言った。
その言葉を私はよく理解できなかった。けれども彼の姿はなぜか私により一層の嫌悪感をいだかせた。
「だだ僕は自分で望んでこうして、階段を登っているわけじゃないのかもしれない。気づいたら、いつのまにか僕はこうして階段を登っている。そこに僕の意思なんてないみたいに。」
「そうですか。まぁもしかしたら多くの人がそうなのかもしれないな。あなたが特別なわけじゃない。普通なことなのかも知れない。」
彼は冷静だった。
「ということは私以外にも多くの人が、この階段を私のように登っている、または登っていたっていうことなの?」
彼はその質問の答えに少し間をおいた。
「あなたはあまりこれ以上質問をするべきじゃないと思うんだ。」
彼はもっと何か言いたげだったが、それ以上は言わず再び歩き始めた。
多くの人?他にもこの階段を登る人がいるかのような言い方だ。多くの人って、、私は彼を呼び止めようとしたが、言葉が喉の途中でつまり、それは言葉にならなかった。また、沈黙が私たちを包み込んだ。
私の頭の中では、泡が湧き立つように疑問が次から次へと生まていた。知りたいことだらけだった。だが、なぜか何か聞いたところでそれはなんの意味のないことであることを知っている気がした。彼の言葉が私の中に侵食して、彼に対する恐怖を抱き始めた。私はただ彼のあとに続き、階段を登りつづけた。
しばらくすると、あることを感じた。階段が少しばかり急になってるのだ。はっきりとはわからないが、間違いなかった。そして、もう一つ、進むにつれ質素であったドアは幾分か美しく、権威のあるものへ変化していった。まるで、そこへたどり着いた私たちを賞賛しているかのようだった。けれども深く考えることはしなかった。意味なんて考えちゃいけないよ。彼の声が聞こえてくるようだった。ただ、私はそれを機械的に知覚し、受け入れた。
あたりは依然と完全な闇だった。目が暗闇に慣れることはついになかった。前後はただ闇であり続けた。数秒前に歩いていた階段はふと振り返ると、果てしない闇の一部と化し、数メートル先の闇の中に何の前触れもなくドアが現れた。それはまるで、私たちが歩くと同時に階段は作られ、私たちが通り過ぎるとそれらは消えてなくなるようだ。暗闇の中は無なのかもしれない。
ふと彼に目を向けると彼の表情の奥には少しの悲しみを感じた。最初の明るい、快活な表情から想像もできないような悲しみを、わたしは感じ取った。それは僕に対しての今まで心の奥深くに隠して来た感情が、ふいに顔を出したかのようだった。だからこそ、それは一瞬であったが、わたしの脳裏には深く、鮮明に焼きついて、離れなかった。
そして彼は一瞬でその悲しみを、意識的に、あるいは無意識に覆い隠したように見えた。
どれほど、登っただろうか、はっきりとした時間はわからない、かなりの段数の階段を登ったことは間違いなかった。私は疲れを感じていた。疲れは私の肉体をとらへ、徐々に精神をも捉え始めていた。
ある事件が起こったのはそんな時だった。
死体だ。突如として、私たちの足元の階段に横たわる人間の男性の死体が現れたのだ。それほど歳をとっていない。その険しい表情は死ぬ時の葛藤、苦しみを物語っている。
彼は突如として現れた誰かもわからぬその死体をまばたきもせず、じっと眺めた。そこになんらかの恐怖を感じていないようだった。彼が何を考えているのか全くわからない。その様子は死体をただのどこにでもある物体とでもとらえているようだ。
なぜこんなところに死体があるのか。
彼はなぜ死体になんの驚きもせず、平然としていられるのか。今まで、抑えていた、ものが一気に溢れるように、あらゆる感情がせめぎ合っていた。私は混乱していたのだ。
「これは死体だよね」
私が言った。
「うん、そうだね。」
彼はまるでそれを見ていたかのように言った。
頭に銃弾が貫通している。
君はなぜそんなに落ち着いているんだ。
「人間は誰しもが死に向かって生きていんだ。そして、死は最も、普遍的で、日常的なものなんだ。それなのに多くの人はそれを受け入れられないだけのことさ。死を考えようとすると、いてもたってもいられず、逃げ出したくなるのさ。それは大人も子供も変わらない。逃げたところで何にも変わらないのにね」
彼の声には感情がなかった。あまりに淡々と話す彼は、とても奇妙だ。
「君は怖くないの?」
怖いさ。僕だって人間だからね。ただ、僕は逃げたくない。今まで、多くの人間が、あらゆる方法でごまかしてきた、完全なる無からね。それは人間を絶望的にさせる。完全なる絶望さ。これ以上完全なものなんて僕はこの世にないと思うね。完全なる絶望は人間を無力にする。だけど、完全な絶望の上で僕たちは生きていかなければならない。間違いなく存在する絶望の上でね。それはたしかにあまりに困難な要求だ。」
彼からは相変わらず人間らしい感情が見当たらない。
たしかに、誰しもが考えることだ。けれども彼はどうして、こんなにも自信を持って、そんなことが言えるのか。私のどこを探しても、確信の持てるものなんか、一つも存在しなかった。それが、どこか苛立たしく、悲しくもあった。
数秒、いや、数十秒であっただろうか沈黙が流れたのち、彼は今までと変わらぬ表情で振り返り
「さぁ、行こう」とだけ言い、何事もなかったように再び歩き出す。あたりは以前と変わらない、果てしない暗闇だった。その後死体は定期的に現れた。その度に彼に動揺の色が現れることはついになかった。
わたしは次第に彼に対して、恐怖を覚え始めていた。なぜだかはわからないが、その恐怖はそれほどはっきりしたものではなく、まるで空間に充満しているようにとらえどころのないものだった。それは逃れようとすればするほど、絡まり、深みにはまるようだった。また、一方で懐かしさに伴う悲しみがわたしの心を覆い、ひどく動揺させているのも事実であった。その中心には彼の存在があることは紛れも無い事実であった。彼の表情、声、しぐさ全てが私の心を激しく揺さぶり動揺させた。それはなぜなのか、分からなかった。私が知っていることなどあまりに僅かだった。
彼に対する恐怖がはっきりした形あるものに変わるまでそう時間はかからなかった。それは私が彼の内側にある胸ポケットにあるピストルをはっきりと見た時だったかもしれない。彼の目的はなんなのか。ピストルはなぜ持っているのか。そういえば、最初の死体の死因は、ピストルによるものだった。良からぬ胸騒ぎを感じ、私は体を震わせた。しかし、そんな自分を無理やり、嘲笑的に眺め、冷静さを保とうとした。
しかし、冷静さもそう長くは続かなかった。
そして、もう一つ。私はなぜか自分の息があがっていることに気づいた。空気を吸い込み、吐き出す。しかしながら、階段をのぼるにつれ、私が吸いこみ、吐き出す空気は温かみがなく、乾ききったものになってきていた。まるで、自分の体は空っぽで、何も無い空洞のようだった。生きているという重みを、感じることができなくなりつつあった。恐怖と虚無感。それしか私にはなかった。以前はできていたことが、難しくなっていた。登れば登るほど、私は何か生きづらさを感じた。それは一つに階段の傾斜のせいだけではなかった。階段を登ることに慣れ、うまく登ろうとすればするほど、私はぬかるみにはまるように、生きづらさを感じずにはいられなかった。
階段を登るごとに彼に対する恐怖は増していき、我慢ならぬほどに膨れ上がってきた。呼吸は浅くなり、鼓動はさらにその速さを増し始めた。
彼の階段を登る足音は、まるで、耳のそばに大音量のスピーカーが置いてあるかように鳴り響いた。
それでもまだ何がそれほど私を、怖がらせるのかわからなかった。それは彼のピストルのせいであるのだろうか。それとも死体のせいであるのだろうか。いや、そんなものではなかった。彼の存在、それ自体に対する恐怖だった。彼が発する底知れぬ不安が私を飲み込み、冷静さを失わせていた。ただただ私は彼が怖かった。怖くて怖くてしかなかったのだ。全身に嫌な汗をかいていた。ひたいからは汗の雫が、顔を通り、顎から滴り落ちた。その汗を拭き取ろうとする気さえ起きなかった。
私は少し前から自分のポケットの中にナイフがあることに気がついていた。それはいつからそこにあったのかわからなかった。けれど、そんなことがどうでもよかった。そのナイフはただ、私をひどく落ちつせた。それだけがこの世にある唯一の救いであるかのように、なんどもなんどもナイフの持ち手を指でさぞっては、その存在を確かめ続けていた。
もう周りの音はしばらく私には聞こえていなかった。周りの雑音は、その存在感を消していた。ただ聞こえるのは、自分の吐息と、心臓の乾いた鼓動の音だった。頭が真っ白になった。
その時の私に感情などなかった。全てが本能的に、機械的に動いていた。自分の手や足がまるで自分のものではないようだった。それらがうごいていることさえ、不思議に思うほどであった。
私は微笑んだ。それは狂気に満ちた、暗く不気味な微笑みだった。その手にはポケットの中でしっかりとナイフが握られていた。
私は一気にナイフを彼に突き刺した。そこには、自分でも驚くほどに、少しのためらいもなかった。彼は立ち止まり、私の方へ振り返った。驚いた、彼は微笑していたのだ。まるで私がそうすることを前から知っていたかのように。私はナイフを彼の体から抜き取った。すると傷口からはどっと血液が滝のように流れ出した。それは実に人間的だった。悲しいほどに美しく人間的だった。彼は微笑したまま、地面へ崩れるように倒れていった。その目は最後の最後まで私を見つめ続けた。彼は人間すぎるほどに人間的だ。私の心の奥底の何かが揺さぶられ、いつか経験したことのあるが、あまりに曖昧で特定することができない感情と、それが放つ強くしつこい匂いがした。それは懐かしい匂いだった。その匂いは、私を安心させ、ひどく悲しくさせた。私は彼をどこかで求めていたのだ。その時私ははっきりと悟った。私にないものを彼は全て持っていた。私が二度と手にすることができないであろう、あの美しく、透き通り、儚くも、力強い純粋さ。ただ私は彼を激しく拒絶しながらも、彼をあまりに強く求めていた。それは不可能であると知っていても、ただただ、彼が私の元へ戻ってくるのを願っていたのだ。
私の微笑は瞬時に消え去り、取り返しのつかないことをしたことを悟った。だが、そうするしかなかったことも十分に理解していた。そうすることでしか、私は進めなかった。進むことに意味など見出せずにいるにも関わらず。
私の足元は彼の血で覆われていた。その色は、どんな絵の具でも表現できないほどの、鮮やかな赤色だった。
彼は倒れ、動かなくなった。息を引き取ったことを悟った。死んだのだ。完全な無に彼は消えていったのだ。赤く血に染まったナイフを私は手から落とした。その時の私は驚くほどに何も感じなかった。どこかで、とてつもない荒れ狂った感情がありながら、とてつもなく大きなダムのようなものにギリギリのところでせきとめられていた。
私は一歩、一歩再び歩き始めた。その足取りはあまりに不安定で、不確実で、絶望に満ち溢れていた。
わたしは立ち止まった。
そして自らの腹にナイフを突き刺した。一瞬にしてナイフは腹の柔らかな肉を引き裂き、貫通した。痛みは感じなかったが、全身の力が抜け、立っていることができなかった。後悔はなかった。むしろ、清々しさを感じるほどであった。徐々に目の前がかすみ始めるのを私は感じた。この時、あることに気づいた。血だ。一滴の血も流れていない。ナイフは腹の深くまで到達しているのにもかかわらず、数滴の血液さえ出て来ない。
ふいに彼の声が聞こえた気がした。
意味なんて考えちゃいけないよ
微かな弱々しい声だった。しかし、間違いなく私はその声を聞きとった。その声は、頭の中で、何度も再生される。
私は耳をふさいだ。そんなこと無意味なことはわかっていたが、何かしなければ気が変になりそうだった。私はうずくまり、その時初めて、自分が震えていることに気がついた。あるものが私の心を隅々まで覆い尽くし、いとも簡単に支配していった。絶望だ。私は完全な絶望に逃げ場を失い、逃げることが無意味であることを感じた。希望は幻想であり、絶望の色をより濃くするだけのものであることを悟った。希望は輝けば輝くほどに空虚さを増し、絶望の闇の色はその深さを増す。その度に私たちは、その希望を持ったことを後悔し、嘆くのだ。けれども、この世の中に、希望を持たずに絶望の中を生きることのできる人間が一人でもいるだろうか。絶望に食われることを知りながらも、私達は希望を持たずにはいられない。そんな、悲劇の中を生きていなかければならない人間という生き物はなんとも悲惨な生き物だろうか。なんと嘆かわしい生き物だろうか。私は苦笑した。
私は少年に無性に会いたくなった。私は必死に少年の近くへ這いつくばった。そして、血まみれになりながら彼を抱きかかえた。少年はまだ暖かく、生きているかのようである。私は彼を抱きしめた。強く抱きしめて、泣いた。
「私には君が必要だ。」
私はそう泣きながら叫んだ。けれどもその声が彼に届くことはない。
私は意識が遠のいていくのを感じ、死が近づいていることを感じた。静寂が再び、私を取り巻く。私は少年を寝かせし、自分も倒れこむ。そして静かに目を閉じた。その目から涙が溢れでるのを止めることはできなかった。
意味なんて考えちゃいけないよ
彼はそう私に語りかけた。
完全なる闇。果てしない階段。私達は階段の入り口に立って居た。そこに私の意思などない。機械的に私はそこに存在しているに過ぎなかった。
彼はそういうと、恐れなど知らぬ力強いあしどりで、階段を登り始めた。私もそれに機械的につづいていった。この時の私に疑いはなかった。なぜか、よくも知りもしない彼を、信頼しきっていた。それは実に軽率に見える!けれど何か根拠のない確信のようなものがあった。彼についていくべきだという、、まるでそれ以外選択肢を持たぬような心境であったと言うべきだろうか。理由はともかく、私は彼のあとに続き、果てしない、階段を登り始めた。そうすることはどこか義務的なものに似ていたかもしれない。
なだらかな階段だった。たいていの人であれば登るのに苦労はしない。一段一段ながら、たしかに私達は階段を上った。そこに会話はなく、私と彼の息遣いがかすかに聞こえるだけだった。
まもなくすると、簡素で、質素なドアが目の前に現れた。そのドアの存在にわたしは、数秒前まで気がつかなかった。目の前は果てしない暗闇に覆われていたからだ。のちに気づいたか、それは後方も同じであった。私たちは前後どこを見ても暗闇に包まれてる。ただ確かなのは、数メートル先に階段があること。そして、彼の存在だ。
疲れたかい。
彼は明るい口調で久しぶりに訪ねた。その顔はどこかあどけなく、純粋な澄みきった目をしていた。
わたしは静かに首を振った。
大丈夫だ。
私たちはどこか似ていた。見かけは全く違う。彼はわたしよりもだいぶ若く、声は少し高かった。体はきゃしゃで、痩せていた。青年と言う表現がよく合う男だった。しかし、どこか、そう本能的に私たちは似ていた。そんな気がしてならなかった。ただ、私は彼の持っている何かが欠けているのを感じた。ただそれが何かはわからないままだった。そのことが、私を少し不機嫌にさせる。
彼は嬉しそうにドアを開く。その表情からはよろこび、興奮の色が見て取れた。彼が開くドアの先にはまた、登り階段があり、果てしない暗闇が広がっていた。
僕たちはしばらくそれを繰り返した。そう長くはない間、階段をのぼり、突如現れるドアを開くそして、また暗闇へ、階段を登って行く。
彼は楽しそうだった。時にわたしを元気づける。そして、嬉しそうに語りかけた
君はこの階段の先になにがあると思う。
わからないな、見当もつかない。
わたしは肩をすくめた。
彼は私の答えなど気に止めぬかのようだった。
僕はこの階段を登ることを夢見てた。嘘じゃない、ほんとさ。君はどう思う?あなたも喜ぶべきだと思う。全ての人ができるわけじゃない。
その言葉を私はよく理解できなかった。けれども彼の姿はなぜか私に嫌悪感をいだかせた。
そうかい、それはよかった。だだ僕は自分で望んでこうして、階段を登っているわけじゃないのかもしれない。気づいたら、いつのまにか僕はこうして階段を登っている。そこに僕の意思なんてないみたいに。僕は君みたいに楽しむことは永遠にできないのかもしれない。
そうかい、まぁもしかしたら多くの人がそうなのかもしれないな。君が特別なわけじゃない。普通なことなのかも知れない。
彼は冷静だった。そして
もっと何か言いたげだったが、それ以上は言わず再び歩き始めた。
多くの人?他にもこの階段を登る人がいるかのような言い方だ。多くの人って、、私はそう質問しかけたが、言葉が喉の途中でつまり、それは言葉にならなかった。また、沈黙が私たちを包み込んだ。
対照的に頭の中では、泡が湧き立つように疑問が次から次へと生まていた。知りたいことだらけだった。だが、なぜか何か聞いたところでそれはなんの意味のないことであることを知っている気がした。それは、根拠のない自信のようなものだった。私に今できることはただ彼のあとに続き、階段を登るだけだった。
「1」しばらくすると、あることを感じた。階段が少しばかり急になってるのだ。はっきりとはわからないが、間違いなかった。そして、もう一つ、進むにつれ質素であったドアは幾分か美しく、権威のあるものへ変化していった。まるで、そこへたどり着いた私たちを賞賛してくれているかのようだった。そんなことに何か意味があることは考えなかった。階段をのぼるにつれ、深く考えることが減っていった。ただ、登りづらくなる階段、段々に派手さを増すドアそれを機械的に知覚し、機械的に受け入れた。考えることになんの意味ももはやないかのように。
あたりは依然と完全な闇だった。目が暗闇に慣れることはついになかった。前後はただ闇であり続けた。数秒前に歩いていた階段はふと振り返ると、果てしない闇の一部と化し、数メートル先の闇は前触れもなく突如、階段と化しドアと化した。まるで、数秒前に階段は作られ、私たち二人が登るや否や、消えてなくなるようである。暗闇の中は無なのかもしれない。「私たちはどこにいるのだろうか。そんな疑問も、花火のように頭の中で生まれては儚く消えていった。」
きみは誰なんだい?
彼は何者なのか。彼は誰なのか。階段をのぼるにつれ、そのなことを考えずにはいられなくなった。
5個目のドアを開けようとする、彼に向かって、私は堪えきれずにたずねた。
そんなこと訪ねて、どうなるの?
彼は動きを止めず、嘲笑しながら言った。
そんなのわからないけど、これは僕にとって
大事なことのような気がするんだ。
なぜそんなことを言ったのかわからなかった。ただ、それが本心から言っていることだった。
彼は一瞬動きを止め、僕の方を振り返った。
僕が思うにそんな質問は無意味だと思う。僕にとっても、きみにとっても。第一、その答えに僕が答えることは不可能なんだ。それはきみ自身が考えるべきことなんじゃないかな。
私は何も理解できなかった。けれどもそれ以上何も聞くことができなかった。謎の圧力を彼から私は感じ取り、それ以上聞くことが僕にとってそして彼に対して、大きな罪であるかのようだった。
「彼の表情の奥には少しの悲しみを感じた。最初の明るい、快活な表情から想像もできないような悲しみを、わたしは感じ取った。それは僕に対しての今まで心の奥深くに隠して来た感情が、ふいに顔を出したかのようだった。だからこそ、それは一瞬であったが、わたしの脳裏には深く、鮮明に焼きついて、離れなかった。
そして彼は一瞬でその悲しみをまた、意識的に、あるいは無意識にいつもの明るい、健康的な表情で覆い隠した。
どれほど、登っただろうか、はっきりとした時間はわからない、かなりの段数の階段を登ったことは間違いなかった。私は疲れを感じていた。疲れは私の肉体をとらへ、徐々に精神をも捉え始めていた。
ある事件が起こったのはそんな時だった。
死体だ。突如として、私たちの足元の階段に横たわる人間の男性の死体が現れたのだ。それほど歳をとっていない。その険しい表情は死ぬ時の葛藤、苦しみを物語っている。
彼は突如として現れた誰かもわからぬその死体をまばたきもせず、じっと眺めた。そこになんらかの恐怖はなかった。彼が何を考えているのか全くわからない。その様子はだだ死体を死体とだけとらえ、実に落ち着いていた。
なぜこんなところに死体があるのか。
彼はなぜ死体になんの驚きもせず、平然としていられるのか。今まで、抑えていた、ものが一気に溢れるように、あらゆる感情がせめぎ合っていた。私は混乱していたのだ。
これは死体だよね
私が言った。
うん、そうだね、彼は自殺したんだ。
彼はまるでそれを見ていたかのように言った。
ほら、頭に銃弾が貫通している、即死だね
君は落ち着いているね
そうかもしれない。
人間は誰しもが死に向かって生きている。そして、死は実は最も、普遍的で、一般的で、日常的なものなんだ。それなのに多くの人はそれを受け入れられないだけのことさ。死を考えようとすると、いてもたってもいられず、逃げ出したくなるのさ。それは大人も子供も変わらない。逃げたところで何にも変わらないのにね
彼の声には感情がなかった。あまりに淡々と話す彼は、とても奇妙で、恐ろしかった。
じゃあ、君は怖くないの
怖いさ。ただ、僕は逃げたくないんだ。今まで、多くの人間が、あらゆる方法でごまかしてきた、完全なる無からね。それは人間を絶望的にさせる。完全なる絶望さ。完全なる絶望は人間を無力にする。だけど、完全な絶望の上で僕たちは生きていかなければならない。間違いなく存在する絶望の上でね。それはたしかにあまりに困難で、大した要求だ。
彼からは相変わらず人間らしい感情が見当たらなかった。あれほど、人間的だった彼とはまるで別人のようだった。
君はタフだね。
僕はタフでいられるだろうか。
それはもはや自分に対する質問だった。そんなこと深く考えることもなかった。だが、誰しもが考えることだ。彼はどうして、こんなにも自信を持って、そんなことが言えるのだろうか。私のどこを探しても、確信の持てるものなんか、一つも存在しなかった。それが、どこか苛立たしく、悲しくもあった。
数秒、いや、数十秒であっただろうか沈黙が流れたのち、彼は今までと変わらぬ表情で振り返り
「さぁ、行こう」とだけ言い、何事もなかったように再び歩き出す。あたりは以前と変わらない、果てしない暗闇だった。その後死体は定期的に現れた。その度に彼の行動に動揺の色が現れることはついになかった。
わたしは次第に彼に対して、恐怖を覚え始めていた。なぜだかはわからないが、その恐怖はそれほどはっきりしたものではなく、まるで空間に充満しているようにとらえどころのないものだった。それは逃れようとすればするほど、絡まり、深みにはまるような恐怖だった。また、一方で懐かしさに伴う悲しみがわたしの心を覆い、ひどく動揺させているのも事実であった。その中心には彼の存在があることは紛れも無い事実であった。彼の表情、声、しぐさ全てが私の心を激しく揺さぶり動揺させた。それはなぜなのか、分からなかった。私が知っていることなどあまりに僅かだった。
彼に対する恐怖がはっきりした形あるものに変わるまでそう時間はかからなかった。それは私が彼の内側にある胸ポケットにあるピストルをはっきりと見た時だったかもしれない。彼の目的はなんなのか。ピストルはなぜ持っているのか。そういえば、最初の死体の死因は、ピストルによるものだった。良からぬ胸騒ぎを感じ、私は体を震わせた。しかし、そんな自分を無理やり、嘲笑的に眺め、冷静さを保とうとした。
しかし、冷静さもそう長くは続かなかった。
「2」そして、もう一つ。私はなぜか自分の息があがっていることに気づいた。はぁ、はぁ。空気を吸い込み、吐き出す。しかしながら、階段をのぼるにつれ、私が吸いこみ、吐き出す空気は温かみがなく、乾ききったものになってきていた。まるで、自分の体は空っぽで、何も無い空洞のようだった。生きているという重みを、感じることができなくなりつつあった。そんなことを私は考え、我に返り、退ける。ただ、頭のどこか片隅で、その考えはしつこく居座り続け、完全に消えることはなかった。恐怖と虚無感。それしか私にはなかった。以前はできていたことが、難しくなっていた。登れば登るほど、私は何か生きづらさを感じた。それは一つに階段の傾斜のせいだけではなかった。うまく登ろうとすればするほど、うまく生きようとすればするほど、私はぬかるみにはまり、抜け出せなくなっていた。
階段を登るごとに彼に対する恐怖は増していき、我慢ならぬほどに膨れ上がってきた。呼吸は浅くなり、鼓動はさらにその速さを増し始めた。はぁ、はぁ。
彼の階段を登る足音は、まるで、耳のそばに大音量のスピーカーがあるかのように鳴り響いた。
それでもまだ何がそれほど私を、恐れさせるのかわからなかった。それは彼のピストルのせいであるのだろうか。それとも死体のせいであるのだろうか。いや、そんなものではなかった。彼の存在、それ自体に対する恐怖だった。彼が発する底知れぬ、不安が私を飲み込み、冷静さを失わせていた。ただ私は彼が怖かった。怖くて怖くてしかなかったのだ。全身に嫌な汗をかいていた。ひたいからは汗の雫が、顔を通り、顎から滴り落ちた。その汗すら拭き取ろうとする、気さえ起きなかった。
私は少し前から自分のポケットの中にナイフがあることに気がついていた。それはいつからそこにあったのかわからなかった。けれど、そんなことがどうでもよかった。そのナイフはただ、私をひどく落ちつせた。それだけが私ののこの世にある唯一の救いであるかのように、なんどもなんどもナイフの持ち手を指でさぞっては、その存在を確かめ続けていた。
もう周りの音はしばらく私には聞こえていなかった。周りの雑音は、その存在感を消していた。ただ聞こえるのは、自分の吐息と、心臓の乾いた鼓動の音だった。頭が真っ白になった。
その時の私に感情などなかった。全てが本能的に、機械的に動いていた。自分の手や足がまるで自分のものではないようだった。それらがうごいていることさえ、不思議に思うほどであった。
私は微笑んだ。それは狂気に満ちた、暗く不気味な微笑みだった。その手にはポケットの中でしっかりとナイフが握られていた。
私は一気にナイフを彼に突き刺した。そこには、自分でも驚くほどに、少しのためらいもなかった。彼は立ち止まり、私の方へ振り返った。驚いた、彼は微笑していたのだ。まるで私がそうすることを前から知っていたかのように。私はナイフを彼の体から抜き取った。すると傷口からはどっと血液が滝のように流れ出した。それは実に人間的だった。悲しいほどに人間的だった。彼は微笑したまま、地面へ崩れるように倒れていった。その目は最後の最後まで私を見つめ続け、何かを訴えかける感情的なものだった。人間すぎるほどに人間的だった。私の心の奥底の何かが揺さぶられ、いつか経験したことのあることは確かだが、あまりに曖昧で特定することができない感情とそれが放つ、強くしつこい匂いがした。それは実に、懐かしい匂いだった。その匂いは、私を安心させるとともに、ひどく悲しくさせた。私は彼に憧れていたのだ。その時私は悟った。私にないもの、彼の美しいほど綺麗な目からもわかる、あの純粋さだった。私が二度と手にすることができないであろう、あの美しく、透き通り、儚くも、はっきりとした純粋さ。ただ私は純粋でありたかった。それは不可能であると知っていても。ただただ、あの純粋さに憧れていたのだ。
私の微笑は瞬時に消え去り、取り返しのつかないことをしたことを悟った。だが、そうするしかなかったことも十分に理解していた。そうすることでしか、私は進めなかった。進むことに意味など見出せずにいるにも関わらず。
私の足元は彼の血で覆われていた。その色は、どんな絵の具でも表現できないほどの、鮮やかな赤色だった。
彼は倒れ、動かなくなった。息を引き取ったことを悟った。赤く血に染まったナイフを私は手から落とした。その時の私は驚くほどに何も感じなかった。どこかで、とてつもない荒れ狂った感情が、とてつもなく大きなダムのようなものにせきとめられ、溢れかえるのをギリギリのところで止められているかのようだった。
私は一歩、一歩再び歩き始めた。その足取りはあまりに不安定で、不確実で、絶望に満ち溢れていた。
わたしは不意に立ち止まった。
私は自らの腹にナイフを突き刺した。一瞬にしてナイフは腹の柔らかな肉を引き裂き、貫通していった。痛みは感じなかったが、全身の力が抜け、立っていることができなかった。後悔はなかった。むしろ、清々しさを感じるほどであった。徐々に目の前がかすみ始めるのを私は感じた。この時、あることに気づいた。血だ。一滴の血も流れていない。ナイフは腹の深くまで到達しているのにもかかわらず、数滴の血液さえ出て来ない。
ふいに彼の声が聞こえた気がした。
意味なんて考えちゃいけないよ
微かな弱々しい声だった。しかし、間違いなく私はその声を聞きとった。その声は、頭の中で、何度も再生され、その度にはっきりしたものへと形を変えていった。
私は耳をふさいだ。そんなこと無意味なことはわかっていた。だが、何かしなければ気が変になりそうだった。私はうずくまった。その時初めて、自分が震えていることに気がついた。その時あるものが私の心を隅々まで覆い尽くし、いとも簡単に支配していった。絶望だった。私は完全な絶望に逃げ場を失い、逃げることが無意味であることを感じた。希望は幻想であり、絶望の色をより濃くするだけのものであることを悟った。それは初めて、自信を持った考えだったかもしれない。希望が輝けば輝くほど、絶望の闇の色はその深さを増し、人間をいとも簡単に食い尽くす獣に、より確かな生命を与える。その度に私たちは、その希望を持ったことを後悔し、嘆くのだ。けれども、この世の中に、希望を持たずに絶望の中を生きることのできる人間が一人でもいるだろうか。絶望に食われることを知りながらも、私達は希望を持たずにはいられない。そんな、悲劇の中を生きていなかければならない、人間という生き物はなんとも悲惨な生き物だろうか。なんと嘆かわしい生き物だろうか、私は何を考えているのだろう。不意に我に返って、苦笑した。
私は意識が遠のいていくのを感じ、死が近づいていることを感じた。彼のあの声もだんだんにポリュームが下げられ、あるとき、ぷつりと消えた。静寂が再び、私を取り巻く。私は静かに目を閉じた。その目から涙が流れていたことに、自分でも気がつかなかった。
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