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孤独のグルメ seasonN島 第15話

味噌ラーメン頂に行ってきた


さて、本日は相模大野付近の麻溝台というところで仕事。

町田が近いので、リベンジ「おやじ」ラーメンしようかと思ったけれども、仕事の兼ね合いで現場近くを検索し、味噌ラーメン頂という店でランチ

孤独のグルメ風に言えば・・・

俺は登山家

ザクザクザク

味噌の山の頂を目指す

俺は登山家だ

キャベツの歯応えが力強い

一歩一歩を山頂に向かう大地を踏みしめるかのようだ

こんな感じかな

普通に濃厚な北海道ラーメンといった感じで美味しかった。

普通に美味しいのはどこもそうなので、主体的にリピートはしないとは思うけれども。

さて、自分が当然こういう記事を上げているのも意図がある。

その意図を記載しちゃうと、意図の目的が達成できなくなるのでそれは書かないのだけれども。

常々思わされるのが、人の言葉には嘘があるけれども、行動と結果は正直だという事。

人が取る行動にはすべて必ず意図があり、何かを行動するってのは何か目的がある。

で、noteであげていても反応薄いんだけど、最近個別LINEで意図せずお褒めの言葉をいただいちゃったりするんだよな。

なんとなく見てくれている人に、自己顕示というかリア充アピール的なことをしたいんだろうなと思われているとちょっとこっ恥ずかしさがあるので、行動の意図がSNSの映え狙いのいいね収集したいというわけではないと自らの名誉のために強調しておきたいのだけれども。

そんなわけで本日の小ネタ

麻溝台に来る前は水道橋で仕事していて、そこのコンサルの方によくそうなんでも行動しますよねと言われた。

俺は6年前は何もしない人だったのだけれども、最近は何もしないと何も起きないと知っているので何でもやるをモットーとしている。

というより、6年前は自分が犯している順番の間違いに、ご多分に漏れず気づいていなかった。

もう15年くらい前に読んだビジネス書にあった言葉だが、優秀な人とそうじゃない人の違いは優先順位の付け方だというのがある。

当時仕事できないを極めていて、プロの仕事できない人だった俺は物事の順番付けと細分化ができていなかったんだよな。

後は言葉を脳内で映像化すること。

人とのコミュニケーションをとる際に相手の言葉を頭の中で映像にできない人は要領を得ない会話しかできない。

言葉を映像に変換すること、言葉を映画を見ている感覚でイメージするというか、これができないと説明が下手すぎる人になる。

何しろ自分の発する言葉すら自分の頭の中で映像にしていないんだから、相手にも分かるはずがない。

まあ、また脱線しかかってるんだが、ネタにしようと思ってるのは優先順位の話なんだよな。

大学受験の時もそうだけれども、まるで何もわかっていなかった俺は高校生の時、好きな娘をどうにか彼女にできないかを考えていて、その時何も持っていなかったのでせめて聞いたことある大学に行って、自らの一般的な社会における付加価値を高めて、その娘を彼女にしようと、今考えるとタイムマシーンに乗って自らをぶん殴りに行きたくなるくらい短絡的な発想をしていた

その娘が自分の彼女になることと、聞いたことある大学に行くことの相関性はまったくの0で、N島さん聞いたことある大学行ってるのね、キャー彼女にしてとはならないのは当たり前なんだけど、それにすら気づかぬくらいの利発すぎるお子様だった。

まあ、そんななか、じゃあ勉強しようと教科書の1ページ目を開いた瞬間、これじゃ間に合わないと悟って、これが解けりゃ合格すんだろといきなり赤本と呼ばれる過去問を、何も勉強しないまま解き始め、間違えたりしたところの解説を読んで学ぶというやり方に変えたらどうにか受験に間に合いはした。

多分、教科書を読んで合格というゴールに向かっていたらゴールにたどり着けなかったと思うんだよな。

逆に、これが解けりゃ合格するというゴールからスタート地点に遡及するように行動した結果、ゴールからスタートしてるんだからそりゃいつかはスタートに戻れる。

スタートからゴールに向かうとの、ゴールからスタートに向かうのでは話が全然違う。

何しろスタートからゴールに向かっての行動はゴールに辿りつけない事の方が多い

そのどこからスタートするのかが、優先順位の付け方であり、かつすべてにおいてこのゴールからスタートに向かうという考え方は正しいんじゃないかと最近思うのだ。

ラッキーしか起きないというゴールから、起きた事象がなぜラッキーであるかという謎解きをしてスタートに戻るのも一緒だ。

仕事の納品物も、この日に納品するから、いつまでにこうしてなければならないと逆算して工程を組む。

それと同じで、多分なんだけれども、何かしたいとか、こうなりたいとかあれば、計画を練って、リスクを考えて慎重にやるのが正しいと一般的に思われており、6年前の俺もそうだった。

だけど多分、本当の正解は違う。

やってしまってから、設計図を作らずに物を作ってしまってから形を望む形に調整していくのが正しいと思うんだよな。

例えば、結婚とかもそうなんだろうけれども、考えると、多分駄目な理由を探してしまう。

慎重で賢明なように見えるんだけれども、実際は違っていて、結婚しない理由やその相手だとダメな理由を探してしまうと思うんだよな。

仕事も同じで、こうしようと思っても、リスクだなんだ理由をつけてやらない理由を見つけ出してしまう。

リスクを回避して賢明なような風に自分では納得しているけれども、なんてことない。

やらない理由を見つけてただやらなかっただけ。

だから当然何も起きないからリスクもない。

それに物事、やる前から考えている情報の素材なんて判断材料が少なすぎて正しい判断なんかできるはずもない。

判断が良かったか悪かったかなんて結果を見なければわからないし、やる事で情報量が飛躍的に増えて、判断材料も増す。

やってしまってから、どうやって自分の望む形に寄せていくか。

結果を変えるか。

物事の受け止め方もそうだけれども、都合のいいように解釈する方が当然メンタル的にも良い。

行動も一緒で、やってしまってから結果を都合の良い方に成形していく以外ないよなと。

それができなきゃ永遠に何もやらないことを継続している人になる。

だから、まずは何でもやるにしないと個人的に一番人が幸福だと感じるのに必要だと思う、前に進めているという感覚、前進感が得られないよなと思うのだ。

自分の幸福感を得るために何でもやっているだけなんで、優先順位を変えただけなんだけれども、なんとなく行動をしない人に必要なのは結果を変えればいいという覚悟を持つ事なんじゃないかと思うんだよな。

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