ジョゼフィンお嬢さんのお話 ~8. あとがき
ワタクシのソウルメイト、ジョゼフィンお嬢さんについて、長々と書き綴ってきた。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
おわかりと思うが、「ジョゼフィンお嬢さんのお話」は誰かに読んでもらうことよりも、ワタクシ自身の気持ちの整理を目的に書かれたものだ。とはいえ、公開するからには読んでくださる方がいることを想定しているので、それなりに推敲した。それでも読みにくい部分が多々あるかと思う。ご容赦願いたい。
(1) その後
これを書いているのは2021年6月。お嬢さんがいなくなってから既に8ヵ月が過ぎた。ワタクシはたぶんまだお嬢さんロスの最中だが、お嬢さんがいないことには慣れたし、突然涙ぐむこともなくなった。ようやく。先達が言う通り、時とは偉大なものだ。
ただ、「ああ、ジョゼフィンお嬢さんがいればなあ」と思うことはよくある。
ニコライ皇帝陛下とアレクセイ皇太子殿下がけんかしているとき。
フレイヤ女神様が撫子さんに手を焼いているとき。
ベランダ日和なのにベランダが無猫のとき。
ワタクシの調子が悪くて臥せっているとき。
それから、夜中にふと目覚めてしまったとき。
それでも、だんだんと慣れてきている。
お嬢さんが亡くなった直後、まだ暖かさを感じるベランダ日和があり、ワタクシはこんなことをしていた。
骨壺を寝室へ持っていき、枕の横に置いて寝たこともあった。
馬鹿なことしているなあ、と自分でも思ったが、こういうことの積み重ねで気持ちを整理してきたのだと思う。これを書くという行為も含めて。
そして毎朝毎晩、猫たちの食事のときは、お嬢さんの写真の前にカリカリをお供えしている(いつのまにか誰かのおやつになっている)。
猫たちも、ジョゼフィンお嬢さんがいない毎日に慣れたのだろう。
当初は、ニコライ皇帝陛下や撫子さんはお嬢さんを探していたけれど、もうそういう行動は取らない。
薄情でも何でもない。それが生きるということだから。
このコたちは生きている。
そしてワタクシには、彼らが命を全うするまで養い見届ける責任がある。
こうして、猫たちに支えられて、ワタクシはまた日常を歩んでいる。
1年前の今頃は、ジョゼフィンお嬢さんとごろごろとベランダ生活を楽しんでいた。それも、悲しいことではなくよい思い出となった。
ジョジョ、おかーにゃんは大丈夫だよ。
あなたに会いたいけど、大丈夫だよ。
(2) いま、猫と暮らしている方へ
最後に、お嬢さんがワタクシに残してくれた教訓を綴る。正直に言えば、後悔めいたものだ。でも、もしかしたらあなたと猫さんとの生活を長くするきっかけになるかもしれない。
何を考えても「たられば」。お嬢さんはもういない。
ワタクシが経験したことは思い過ごしかも知れないが、心の中に引っかかっていることは確かだ。だから、「こんな些細なこと」と思っても、猫さんを病院へ連れて行ってあげてほしい。自然災害からの避難と同じ。空振りでもいい。あなたと猫さんの日々が長くなるかもしれないのだから。
それから。
これは、あなたの猫さんの命数とは関係のないことではあるが...
そして、大事なことをもうひとつ。
(3) 最後に
ワタクシは多頭飼いを選んだ。ジョゼフィンお嬢さんの面倒見のよさのおかげだ(ごはん風景以外で、5にゃん全員が写っている貴重な写真。ニコライ皇帝陛下は右の椅子の下に)。
1匹の猫に溢れんばかりの愛情を注ぎ、その猫が亡くなると猫との生活をやめる方もいらっしゃる。そういう愛し方も素敵だ。
でも、ワタクシは「猫に九生あり」を何となく信じていて、できることならもう一度、ジョゼフィンお嬢さんをお迎えしたいと思っている。ニコライ宮殿のジョゼフィンお嬢さんが、9番目の命ではなかったことを祈る。
レッドのショートソマリに気が行ってしまうけれど、レッドじゃなくていい。ショートソマリじゃなくていい。もしも、あなたが、よかったら、毛皮を着替えてもう一度、おとーにゃんとおかーにゃんのところに戻ってきてほしい。
さらに勝手なことを言う。
年齢的に、仔にゃんからいっしょに生活するのはもうぎりぎりだから、急いで戻ってきてほしい。
待っているから。
ジョゼフィンお嬢さん
あなたは13歳1ヵ月18日のすばらしいにゃん生を送りました。
ニコライ宮殿に来てくれてありがとう。
家族になってくれてありがとう。
たくさんのしあわせな思い出をありがとう。
また会いましょう。