ジョゼフィンお嬢さんのお話 ~番外編:あの猫(コ)の名残り香
このエッセイは、ジョゼフィンお嬢さんが亡くなってから2ヵ月ほどのちに書いたものです。とあるエッセイコンテストに応募したのですが、落選しました。
でも、せっかくお嬢さんを思って書いたものなので、noteに載せることにした次第です。
応募時との改変箇所は基本的にはありませんが、noteではルビを振れないため(2022.2.24 ルビ追加修正)、全て「猫」と表記しました。「あの猫」は「あのコ」と読んでいただきたいのです。
これもワタクシの心の整理の一部です。
あの猫の名残り香
この地でもまだ秋の陽射しに暖か味を感じられた頃、私は飼い猫を亡くした。十三歳だった。
総勢五匹の多頭飼いだったので、あの猫がいなくても四匹との生活は変わらず続く。それでも、喪失感は想像以上に大きかった。
無意識に、食器を五つ並べてしまう。お気に入りだった場所に目を遣り、姿がないことを確認してしまう。鈴の音のような鳴き声が聞こえてこず、涙ぐんでしまう。「『心の中にぽっかりと穴が開く』とはこういうことなのだ」と、自分に説明する私がいた。
目を腫らしたままの日々が続く中、ある日、ふと気付いた。家の中のにおいが変わっていた。あの猫のにおいが感じられなくなっていた。猫は獣臭さがあまりない動物だが、それぞれに異なるにおいがある。人間と同じだ。末っ猫が家族になって以来の二人と五匹の八年間、我が家の空気だったにおいが変わってしまった。あの猫のにおいは、大好きな日向ぼっこのお日様のにおいだった。
食器の数は、気を付ければいい。写真を見れば、何度でも会える。動画を探せば、またあの鳴き声を聞けるはずだ。でも、どんなことをしても、もう二度とあのにおいを胸の中に吸い込むことはできない。
それを理解したとき、子どもの頃の学校の先生の言葉を思い出した。
「ケンカしても、絶対に『臭い』と言ってはいけない。それは、『そこにいたらダメ』という意味になってしまう。その子の存在を否定することになるんだよ」
においとは、存在なのだ。あの猫のにおいがない家の中は、無性にさびしい。
四匹の猫たちは、家の中のあちらこちらであの猫の名残り香を感じている。姿はなくとも、彼らにはまだあの猫が存在する。何とうらやましいことか。
私は、いつまであの猫のにおいを思い出せるのだろう。私も猫だったらよかったのに。猫だったら、あの猫はまだ私のそばに存在するのに。どうしようもないやるせなさが、溢れ出てきた。
もうすぐ、あの猫がいない二か月が過ぎる。あの猫はお日様のにおいがした。私は、あの猫のにおいを忘れてしまうのだろうか。