短歌とは如何なる菓であるか


 短歌とは一体なんなのか。近頃私の脳髄を占めるもっぱらの疑念である。短歌とは五七五七七から成る計三十一文字の近代定型詩だ、というのが、まあ一般的な定義には相応しいだろうが、その規定枠の中で何が描かれるべきであるかは存外にも黙してみな教えてはくれない。であるので、自分なりに考えてみようというのが当記事の趣旨である。因みに筆者は短歌史の心得が薄いのに加え、趣味程度に短歌を嗜むばかりの浅学非才であるので、ぽっと出の素人の独り言くらいに捉えて戴けると嬉しい。

 短歌とはなにであるのか。先述でも僅かに触れたように、これは短歌の形式や外見の定義を求めるものでもなければ、短歌の優劣とか、技法論とか、ましてや第二芸術論的な話をするつもりは一切ない。三十一文字に如何なる信念と生命の呪詛を打ち付けるか。私の興味はその一点のみである。(けれども、形式は内容性と深く絡み合い、韻律が歌意に及ぼす影響は計り知れないのもまた事実だ。しかしそれは一旦脇に置いておくことにする。)

 個への探求

 近代短歌は和歌より発生した近代詩である。和歌、訓読みでやまとうたと呼ばれる、万葉集であったり新古今和歌集であったりに収められるあれ。平安宮に裳裾を引いて渡殿を過ぎる貴人の優雅さを思わせるおもたく雅やかなな筆遣いに、香のごとく焚き染められた花鳥風月のにおやかさ、いにしえへの果てなき郷愁……。を、思わせるそれである。万葉集には詠み人知らずの歌も多いとはいえ、王朝が力を持つにつれ和歌は貴族のものとなり、さらには権力の加護を得て盛大に華やぐ。そうして歌われた和歌とは、歌を通して既存の価値観を再認識することで社会に帰属するひとつの社会的装置であったように見える。(もちろん、私が知らないだけで他の作用や狙いもあるだろう。)
 それが近代になると、新しい価値観を取り入れ新しい時代に寄り添うようにして姿を少しづつ変えていく。その変身のさなかに何を見ていたか。けして短歌に限った話ではなく、ましてや文芸に限った話ですらあるまい。近代のわれわれが求めているものは個である。近代を通じて大衆という生き物、一つ一つの生き物はいっしんに個を追求して都会を草原を駆けている。それはまるで遠視を患った偏屈者のように。個という遠近も大小も剥奪された一点を、偏狭なまでに凝視する。説明するだに馬鹿馬鹿しいが、卑近なあまり言葉にするのも忘れそうになる近代人の特色だ。作品の独創性さえ個というものの側面に他ならない。しかし個を突き詰めると、あるミクロの一点を越えた先で突如として観念が反転し、偏狭な個が普遍へと拡がりをみせることがある。個とは普遍の母であった。これが今、われわれの目指すところのものであるが、しかし個への執着というもの自体、今という時代の特殊性に他ならぬことは留意さるべきであろう。

 さて、われわれの個への偏執を確認したところで舞台を短歌に戻そう。近代〜現代の歌人がどのように個と向き合い、三十一文字の上に繰り広げられる熾烈極まる自我との争闘へと身を投じたのか、その境地を探ることは短歌を知る上で有意義であろう。歌壇ではしばしば新しい手法への懐疑と弁明とを巡って論争が起こった形跡があるようだ。ここではその一端を取り上げてみよう。

 葛原妙子

 名だたる歌人が戦争責任を追求されるなど短歌そのものが消沈していくさなか、戦後の歌壇に一筋の光芒が照る。乳癌を患いながら母と女との間で揺れ、生死と性の感覚を肉の内側から豪胆にも歌った中城ふみ子の存在である。彼女の歌は鮮烈であった。破調、濃密なる女性性のしたたりと開示、寝耳に響く婦長の足音にも似た克明な死のイメージ。当時には斬新な要素をいくつもぶつ切りの野菜のごとく内包した作風は不当な批判をも受けることとなったが、それ以上に若い世代からの反響は大きく、中城の姿勢に追従する者は少なくなかった。それは様々な方向へと波及していき、「モダニズム短歌」「反写実主義」などと呼称されたもののうちのひとつとして「女歌」という流れが出来上がる。当時歌壇でも知名度を持つがゆえ、女歌の代表格として目されがちなのが葛原妙子そのひとであった。
 女歌というものが消極的な意味で用いられる中、最初こそ女歌に短歌界の未来を見ていた折口信夫は葛原の作風の意向を見て批判的姿勢を持つようになり、有名な女歌論議が発生するに至る。そのようにして、葛原の「再び女歌を閉塞するもの」は生まれることを余儀なくされた。内容は女歌に純潔・清廉を求める折口の要求に対し、やんわりと拒絶を示しながら、戦後の中年女性の持つどろどろとした屈折性をぞんぶんに打ち付けよ、とその薄暗さを力強く肯定するものであった。ここには単なる風雅な詠草に収まりきらぬ近代的な自我、はみ出したものを再度集めて練り上げる泥臭さ、途方もない救いきれなさ、鬱屈したものが鬱屈したままで生命を与えられる地獄のようなねばりと執念に塗れている。私はこの決意を、この世の何よりも尊く思い、ひとつの信仰のように信じている。
 文学上で救われることは容易い。たったひとしずく、涙さえ流せば良いのだ。現に世俗はそういったもので溢れているように見える。けれどもたった一瞬文学によって救われたとてわれわれの生命は続く。どうしようもないほどの倦怠と諦念を伴って明日は来たる。鬱屈は菌のごとくして蔓延る。陰鬱へと傾いた時救いは繰り返し私から遠ざかっていく、私が生きる限り永劫のこと、なぜなら、私たちは生きてしまっているから。腐敗した肉を抱きしめ続けることの注意深さ、忍耐力、それらを維持せんとする姿勢に、私は人間本来の泥臭い高貴さを思うて止まない。


 塚本邦雄

 女歌と同時代に発生し流れを異にしたもうひとつの潮流、前衛派。元は不遇の評価を得て難解派と呼ばれていたようであるが、これもまた前衛短歌論争と呼ばれる流れの中で方法論が徐々に確立され日の目を浴びるに至る。いつの世も新奇なものは不当な批判に晒されるものであるようだ。筆者の目からはおおむね、新しい手法へ生理的な忌避感が体のいい理論となって立ち上がっているように見えるのだが、しかし論議に発展するにつれてお互いの理論性も深みを増し、自らの歌論に帰依する奏功の大きいこともまた事実である。前衛派に関する論議でもっとも実りの多かったものは大岡信との論争であろう。
 塚本の新奇性に富む歌風、なかんずくリズムに対し、いたずらに歌の韻律を枝折りひけらかす数寄者に見えたのであろう、歌やリズムの屈折に拘泥するあまり方法論的なところに傾倒してしまう恐れや、歌の視点に屹然たる自己批判的姿勢が損なわれ、内面の薄暗いものへのフェティシズム的な沈溺へ終始してしまうことへの警鐘を鳴らした。これに対し塚本は自らの未知深き歌体のうつくしき骨組みを惜しみなく露わにする。内容性を軽視したリズムの玩弄への疑いを迷わず否定し、大岡の言うフェティシズム論にも当意のないことを宣言した。曰く、リズムの屈折はあくまで内実のイメージの節目に対応して行われる裁断であること、歌そのものの実態を調整するいち手法に過ぎぬことを断言し、また孤独の禊に耐えつつ執り行われる生や死への執念深い「凝視」の反映にすぎないとした。じつに清々しいまでの信念ではないか。偏執とも呼ぶべき自我への対面、忌まわしいまでのその執念。塚本が偉大であるのは韻律の破壊にも形式の破壊にも功績があるのではない。徹底して「魂のレアリスム」を貫かんとした忍耐強さ、慧眼の鋭さ、方法主義に惑わされぬ逞しい偏狭さにあろう。葛原とはまた方向性の異なる気魂の高貴さに、私は深く敬服する。


(参考図書、川野里子著「幻想の重量」、現代歌人文庫「篠弘歌論集」より。誤りがあったらごめんなさい。)


 戦後歌人のビッグネーム二人を引用してみたが、これだけでもわれわれが如何に「個」というものへ熱中しているかが分かるであろう。そして彼らの文脈上にいる我々も例外なく個を探求するさだめにある。それは恐らく、誰もが声もなく予感しているところに他ならない。短歌も、詩も、小説も、個の追求であることには変わりがない。問題なのはその姿勢である。短歌が幻想性を増した今、その袋に如何なる実を詰めるのか。私はそうして成る短歌という果実の実態を問うていたい。そして私が愛した短歌には、私が吐精する生命の悲鳴のあまねくに耐えて貰いたいのだ。そう思う程には、いつの間にか素人の私も短歌を愛してしまっていたらしい。

 さんざ見苦しい文章を披瀝しましたけれど、私の思索がどなたかの糧や針のようなものになりましたら倖いです。ここまでお付き合い下さった方がいらっしゃるかは甚だ疑問ですが、この場はこれにて。

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