北上郷夏「明日なき旋律」感想
僕達は憎む。
ただし、
憎むように愛す
孤独な炎を愛撫して
私だけの既視感(デジャヴ)にしよう
当書は序文という門扉の開きに誘われ、魔境のごとき映写が幕を上げる。詩と呼ぶにはあまりにも痛々しい、肉々しい、いまだにして血の滴る昔日の輪切りが私たちを待っている。此処には自らを韜晦するものなど何もない。露悪とも評しうる露顕、その鮮明の大きさに一見のみでは眩惑の気配に曝されるけれども、実態はあくまで徹頭徹尾、あらわである。
さて、じつは私、谷川俊太郎以外で同時代、同世代のひとの詩集を買ったのははじめてだ。元々読書家という訳でもない、詩も勤勉に読むという訳でもない私がツイッターで偶然発見したこの人の詩に惚れ込み、折に触れて詩集を購入し読んで得た感動というのはひときわ大きかった。不思議と馴染む言葉綴り、同時代性もあってか体感的なものの馴染みも深く、烈しく忘我し、没頭した。その感想を此処につらつらと並べようと思う。もし当書を未読ながらもこれを見に来ている人がいるならば読んでからまた見に来て欲しい。読者から先入観なしに本と触れ合う新鮮な感動を奪うのは、私には耐えがたい大罪である。
詩人の卓越した言語構成力を垣間見る文節はごろごろと転がっているのに、真に胸に迫るものはなだらかで実直な言葉どもであり、(そして恐らくそれこそが作品の柱である、)そちらを優先するあまり、その技巧をなかなか紹介出来ないのがもどかしい。まず先にもいったけれども、序文、それに続いて来るべき跳躍へ向けての助走のように穏やかな、(けれども苛烈さは完全には失われてはいない。)そんな詩がいくらか続く。少年は懐かしんでいるのだ。情念というメロディに乗せて、苦渋深き甘美な腫瘍に触れるために手を洗っている。いつくしむように、注意深く、さげすむように、後悔はしないように。どうしようもなく愛している。そのきずぐちを。たましいを蝕まれている。ふるさとがうつくしいせいで。けれども少年の頬はさめざめと湿る。「季語の翳り」、そこにある空白のなんとも歔欷する人間のしゃくり上げに似たことか。まるで喪失した人間の虚ろが白く染まって点在するかのようだ。少年と少女の甘くほろ苦いまじわりは都市の投影でしかなかったのか?静けさのなかで誰にも知られず首を縊られている。あっけない。あっけないことへ睨めども、季節が人間のもとへ帰ってきた試しなど一度もない。
少年のふるさとはまだ純烈に燃えている。けれども帰っては来ない。慙愧もなく、改悛も赦されず、生ぬるい泥土の罪を諸手に抱える。「死んだ叙情」の中で少年は追憶という狂気を彷徨う、愛よりも愛執深く。憎悪を借りて欲情は繁る。
(その夜、何もかも忘れたようなおまえが
くるしみもしらず空を見つめていたから
おれは憎しみで星を数えるようになった)
なんという無慈悲なる非対称。愛の綱引き、憤ろしさ。紅燃え立ち上る郷愁よ。人は愛ともいえるほどの愛を懐胎した時、同時にふるさとを開拓するのかもしれない。
それから続く「明日なき旋律」、これに言及するのはいささか野暮だろう。私たちは彼を、彼女らの劇場を、哀憐といつくしみを以て見迎える他あるまい。今日の演目のすべてはこの為に誂られた、もしくはここから根を張るように発生したにすぎない。神話のようなドラマティカを、青くて青くて仕方のない生臭く鼻の奥につんとする匂いを、首肯して力強く書籍を閉じる以外になす術などあるのだろうか。
以上。想像以上に駆け足になってしまったから、後日に付け加えるかもしれない。一先ずはここで筆を置く。詩の感想はむずかしい。取り留めのとの字もなくなってしまった。まあ自分で後で読み返して楽しければいっか。それでは。