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一匹の猫が死んだ
忘れもしない。
それは、私の誕生日だったのだから──。
妊娠中に引っ越した先は、古い木造アパートだった。
そのアパートの一室に大家さん一家も住んでいる、昔ながらの佇まい。
狭かったしボロボロだったけど、家賃がとても安かったのである。
しかしいいことばかりではない。
下の階に住んでいる老夫婦がとんでもなく意地悪で、子供の足音が煩いと、昼夜問わず下から天井を叩いてくるような人だった。
おかげで私はワンオペ育児にプラスして、下の住人に気を遣い、昼間は家にいられない、という生活を送っていた。
だからと言って、行くあてもない。
ひたすら近所を練り歩くような毎日を過ごしていたのである。
その日は息子をベビーカーに乗せ、近くを流れる川の土手を歩いていた。
当時息子は1歳半~2歳くらいだったろうか?
ベビーカーに乗せてしまえば、何時間でも大人しくしているような子だったので、散歩するのは本当に楽だった。
誕生日だからと言って、特別な一日なんかどこにもなくて、私は過ぎゆく「その日」をやり過ごすために、土手の道をベビーカーを押しながら歩いていた。
土手の道は、一直線だ。
少し先に目を遣ると、道路の真ん中に、なにかがあるのがわかる。
そしてそれは、私の勘が間違っていなければ、厄介なものであると推測される。
ゆっくりと歩みを進めると、思った通り、それは一匹の猫だった。
(やっちまったな……)
見てしまったからには、もう手を出すしか道はない。見て見ぬ振りが出来るタイプではないのだ。特に、猫に対しては。
私はそっと近付く。
逃げない。
触る。
逃げない。
子猫ではなく、成猫。とはいえ、若いことはわかる。生後7か月~1年くらいだろう。
持ち上げてみる。
異様に軽い。
パッと見にはわからないが、相当痩せている。
今思えば、このころの私は、何故かよく猫を拾った。
賃貸アパートではあるが、大家さんの許可を得て自分も飼っていたし、半年前に拾った黒猫は、里親さんを見つけ送り出した。猫の保護は、これが初めてではなかったわけだ。
河原から動物病院までは、車の往来が激しい道路を越えなければならない。
抱いていくのは無理。(ベビーカー押してるから)
今日に限って、カバンに「アレ」は入ってない……。
私は猫に、言った。
「ちょっとここで待てる? すぐ戻るから!」
ベビーカーを押し、私は一番近い100円ショップに走った。そこで洗濯用ネットを購入し、戻る。時間にして、七分くらいか?
もしかしたらもういないかもしれない。そんな風にも思ったが、ちゃんと、そこにいた。
私は彼女を抱き上げ、洗濯ネットに入れ、そのまま動物病院へと直行した。
生後約一年の、メス。
雉猫? 縞三毛? まぁ、よくいる雑種。
ノミダニほぼゼロ。お腹に虫もいないことから、最近捨てられたのだろうと判断。血液検査で白血病、猫エイズもなし。痩せてる以外、問題なしとお墨付きをもらい、帰宅。
しかしうちには猫嫌いの先住猫(三毛猫)がおり、同棲は難しい。速攻でケージを組み立て、とりあえずそこに入ってもらう。
即、里親募集。
名無しは可哀想なので、拾った猫には仮名を付ける。
痩せてガリガリで、捨てられたのであろうその子に、私は大輪の花を咲かせてあげたかったので「ぼたん」と名付けた。
有難いことに、開始数日でお声が掛かった。
声を掛けてくださったのは若いご夫婦。……って、その当時の私からしたら、ちょっと年下、くらいな感じだったと思うけど。
無事、ぼたんは引き取られていった。
幸せになるんだよ~! と、送り出した。
ぼたんの近況は、SNSを通じて知ることが出来た。里親さんになってくださったご夫婦はとんでもなくいい方で、実は会社の社長さんだった。まさにシンデレラストーリーのように幸せを掴んだのだ。
名前はそのまま「ぼたん」を採用(?)してくださり、ぼたんはお嬢になった。そして、優しい先住猫さんにべったりな写真を見て、私も混ざりたいくらいだった。
里親さんとはSNSを通じ、やり取りをさせていただいていた。先住猫さんだけでなく、わんこもいるおうちだった。
先住猫さんが亡くなり、お子さんが生まれ、わんこが亡くなり、お引っ越しをし、新しいわんこたちがやってきて……と、ぼたんは家族として、里親さんちの一員として過ごし、可愛がられていた。
私も忙しくしていたし、最近はインスタもほとんど見ていないから、その後どうしているのかは知らなかったけれど……
ふと、開いた画面。
Instagramの、里親さんのページに、ぼたんがいた。
「お別れ会をしました」
ああ、そうか……。
彼女は生き抜いたんだ。
里親さんちの子として、幸せな猫生を、静かに終えたんだ──。
私はこみ上げるものをぐっと堪え、メッセージを送った。
「幸せな猫生を、ありがとうございました」
私はただ、拾っただけだ。
ぼたんは里親さんちの子である。
だけど、あの日、私の誕生日に目の前に現れた痩せた一匹の猫は、私の願った通りに、大輪の花を咲かせるかのように、猫生を生きた。
そのことが、とても嬉しかったし、いなくなってしまったことが、とても悲しかった。
里親さんからメッセージが届いた。
そこにはぼたんのことが書いてあった。
食欲は落ちていたものの、前日まで階段を降りわんこたちと過ごしていたこと。
息子さんの野球が雨で中止になり、家族全員が見守る中で静かに亡くなったこと。
いっぱい愛されてた。
よかった。
ありがとう。
ほんとうに、ありがとう。
幸せそうな写真が沢山送られてきた。
号泣しそうだから、家に帰ってからゆっくり見ます。
そう、送ったけどもう泣いてる。
泣き止んで仕事しなきゃいけないけど。
花粉症でよかったと、今だけ思った。
命は、短い。
ぼたんは幸せになったけれど、捨てられる命はまだまだ多い。
私にしか懐かなかった三毛猫も、今飼っている爪のない子も、同じように捨てられた子だ。
飼えないのなら、産ませなければいい。
責任が持てないのなら、飼(買)わなければいい。
ただそれだけのことができない身勝手な人間の、何と多いことか。
生き物はすべて、生きて、死んでゆく。
野生動物に「幸せ」という概念があるかはわからないが、少なくとも人の傍で生きる動物たちは、「誰と過ごすか」で幸福度は違ってくるのだろう。
人も同じかもしれない。
大好きな誰かの傍で生きること。
大好きな誰かの傍で死ぬこと。
万々歳の猫生だ。
大輪の花が、咲いたんだ。
ぼたんという名の、一匹の猫が死んだ。
ただそれだけのお話。
了