ミステリと言う勿れの一話と社会思想のカケラ


走り出し

ネタバレ含む。

「漫画の読み始め無料が面白かったから見よう」と言われ、このドラマを見始めた。このブログを書き始めるまで、駅に並ぶもじゃもじゃの隊列も、誰が一番主役に相応しい俳優かという論争も、遍く断片的なものでしかなく、繋がりは何一つ見出せていなかった。

なんだ、また菅田将暉か。とぼんやり眺めていると、エンケン率いる警察がカレー作る主人公の家を訪ね、任意同行を求める。半ば強引な身柄拘束は事情聴取の場面に変わり、お前が犯人だと押し込めようと厳しい尋問が重ねられていく。

ここから何が展開されていくのだろう。冤罪か。痴漢冤罪があるように、このドラマは冤罪に対してとやかく言わんとするブツなのかと半ば決めつけて見ていた。

菅田は久能整(くのう ととのう)という役らしい。任意同行を求められた時にそう自己紹介をしていた。その彼が口を開くと、「僕はやっていません」とトーンも変わらず、尋問の度に口にする。痺れを切らしたエンケンこと、薮鑑造は久能を突き飛ばす。

すると久能は、自分が人を殺している場面を見たという証言は、そう口にした人がたまたまいただけかもしれないと言い放つ。どちらも不確かであるのだから、その証言と自分の「やっていません」は同じ立場であり、そうであるにも関わらず、証言は信憑性が高いと判断されてしまうのかと説く。他にも所々に散りばめられた人の仕草や言葉から久能は推論を重ねては、事実であると警察達が捲し立てる話の脆さを暴いていく。

今はなにかとエビデンスが騒がれる。企業に限ったことではない。政策でもEBPM(Evidence Based Policy Making)証拠に基づく政策立案が求められる。推論をあれこれ並べる位なら、証拠を1つでも積み重ねろと言わんばかりの流れである。

単に漫画が話題になっただけなのかもしれないが、そのような風潮をどこかで汲み取り、そのアンチテーゼとして主人公が立ちはだかるのではとすら感じさせる。というのもある2点が明らかに仕組まれているからだ。

①警察/久能いう構図

第一話にこの構図を意図をもって持ち込んでいる。上記のエビデンスの話題について触れたように、警察は証拠を1つ1つ集めていく。それに対して、久能は徹底的な観察とそこから広げられる推論から筋道を立てていく。これは帰納的/演繹的という構造となる。デカルトとベーコンを持ち出し、哲学の入り口にでも立とうとしているのだろうか。

②ミステリーと言う勿れ

ここで問いを1つ持ち込みたい。なぜ事件はミステリーとして安直に扱われ、語られてしまうのか。何故なら、断片的な事実=証拠から、結論を導こうとすることに徹する=帰納的に考えてしまうがばかり、誰もが明らかに納得できるような、客観的な合理性を結論に持ち込みがちだが、人間の非合理的な側面=限定的合理性を理解できないことが生まれてしまうことで、ミステリーとなるからだ。
その一方、久能には、とある大前提を忍ばせてある。それは他者は理解できるものだという前提である。事件が何故ミステリーと結び付いてしまうのかという問いは、犯人の動機が理解できないという前提に立つことで成立する。久能はそう考えない。その人となりの何かしらの合理性、限定合理性があると考え、理解できるものとして捉える。だから、ミステリーは謎に包まれることはなく、理解されるものとして捉えられる。ミステリーと言う勿れなのだ。

真実/事実の分出からも思想のお話が続くと見た。社会構成主義などに既に触れているが、どれほど展開していくだろう。二話はまたその辺りに触れようと思う。

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