『リリーのすべて』と、子どもを産むことについてのメモ
『リリーのすべて』という小説を読みました。
エディ・レッドメイン主演で映画化もされた作品です。
この小説は、簡単にいえば『身も心も女性に変化していく男性と、その妻の物語』です。
主人公のアイナーとその妻グレタは2人とも画家で、ある日、グレタの絵のために女装したことをきっかけに、アイナーの中に「リリー」という少女の人格が生まれます。
次第にリリーが表に出る時間が増えていき、性別適合手術を受けて、アイナーは心身ともにリリーになっていきます。
世界で初めて性別適合手術を受けた人物がモデルになっているそうだけれど、ほとんどがフィクションです。
丁寧で細やかな描写が続き、風景や空気の色まで目に浮かぶようでした。
それで、私がいちばん印象に残っているのは、終盤でリリーとグレタが別れを選ぶシーンです。
リリーは、手術する前、つまり体がまだ男性であった頃に知り合った男性と結婚して、子どもを産むための手術を受けたいと言い出します。
それまでの手術では、子宮の移植までは行っていなかったんですね。
リリーはグレタに手術の付き添いを頼みますが、グレタは断り、ずっとグレタを気にかけてくれていた男性と生きる道を選びます。
実はグレタには流産の経験がありました。
「子どもを産む」という行為が、きっとグレタにとって何か大きな意味があったんでしょう。
私には、「子どもを産む」ことについて、忘れられない言葉があります。
LGBTsについて話していた時に、知人が衝撃的なことを言ったんです。
※以下、LGBTsの方、子どもをもたない選択をした方は不愉快になる表現かもしれません。
読みたくない方はここでUターンしてください。
知人は、私にこう言いました。
―LGBTみたいな人たちは、子どもを産まないでしょう?
子孫を残すのは動物としての義務なのに
子どもを産まない人は動物としての義務を放棄してるんだよ
不妊症みたいに、体の機能に問題があるなら仕方ないけどさ
だって子孫を残さないと次の世代に迷惑が掛かるじゃん
大きく言えば年金だって、少子化が進んでるから崩壊しかかってるんだよね
悪だって言いたいわけじゃないけど、義務を放棄してるのは事実だと思うよ
いや~~~。
いや~、うん…。
「この人なに言っちゃってんだろう」が最初の感想です。
どこからつっこめばいいのかわからなくて、頭がくらくらしました。
「LGBTみたいな人たち」という言い方はいかがなものかとか、
何らかの事情で子どもを持たない選択をした人を否定するのかとか、
年金制度が崩壊しかかっているのは本当に少子化だけのせいなのかとか、
義務とやらは個人の自由よりも優先されるべきものなのかとか、
いろんな反論は浮かんだんですけれど、何を言っても届かないような気がして何も言えませんでした。
本当は怯まないで、対話を試みるべきだったんでしょう。
だけれども、あそこまでの届かなさを目の当たりにすると、とてもじゃないけれどそんな気持ちにはなれませんでした。
私と彼女の、人間や性、愛に対する考え方の間に深くて暗い溝があって、しかもその溝の底には冷たい川が流れているんです。
このことを思い出すたびに、人間にとって生殖とはどんな意味をもつのか、人間と動物の違いとはなんなのかを考えます。
例えば自分では子どもを産まなくても、養子を迎えたり、養護施設の支援をしたり、何らかの手段によって子どもを育てることに参加している方もいるでしょう。
必ずしも子どもを産むことだけが次の世代を育む手段ではありません。
そして、「子どもを産む自由」と同じくらい、「子どもを産まない自由」も尊重されるべきもののはずです。
子どもを産むことが「義務」と言われると、「その言い方は違うんじゃない?」と思います。
極端な話、個人の自由や権利を尊重した結果、次の世代に迷惑が掛かったり、人間が滅んだりしたとしても。
それでも私は生き方を強制することは誰にもできないと思います。
とってもわがままな発想ですけど、別に顔も知らない他人のために生きてるわけじゃないし、自分と自分の周りの大切な人のために生きるのだって全然OKです。
他人のことを考えて生きるべきだと思うなら、そう思う人がそんな風に生きていけばいいだけのことだと思います。
と、ここまで書いてみましたが、やっぱり知人を納得させられる気はしません。
私自身も、もっともっと言えることがあるはずという気がしているので、じっくり時間をかけて向き合っていきたいと思います。
何かまとまったらまたnoteに書きますね。