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「働く」は「生きる」の手段でしかない

就活をしていてつくづく思うのは、「企業で働くだけが人の生き方じゃない」ということだ。

就活をしている以上、公務員になったり、起業したりするのではなくて、民間企業で働くことを目指している。
就活を始める時、「なんで就活するのか?」を考えた。
私が就活する=民間企業で働きたい理由は次の3つだ。

・なるべく自分がしたいと思う仕事をしたい
・自由闊達な場で働きたい
・ある程度の収入の保証がほしい
・初めの内は仕事の仕方について教えてもらえる環境にいたい

ひっくり返すと、公務員を目指さない、起業しない理由にも大体当てはまる。
すなわち、

・公務員になると民間企業以上に組織の事情で職務が決まりそうで、したい仕事ができなさそう
・公務員が働く場は官僚制が浸透していそう
・起業してすぐの内は、収入の保証がない
・新卒で起業しても、仕事の仕方を学べる環境にいられなくて大変そう

掘り起こすともっとありそうだけれど、本題じゃないのでこの辺でやめておく。
大事なのは、私がしあわせに生きるためには「ある程度の収入」と「仕事の選択権」と「教えてくれる環境」が必要で、それを叶えられるのが民間企業への就職のようだったから、就活をしているということだ。
就活は、私がしあわせに生きていくための手段でしかない。

私のしあわせの条件が変われば、公務員になったり、起業したりことを考えることもあるだろう。
もっと言えば、働かないという選択肢だってあるかもしれない。
専業主婦になったり、学びの場に参加して学び直したりするかもしれない。

先日、結婚して仕事を辞め、相手の住む土地に引っ越した友人と話した。
友人は、今は働いていない。
そのことに関して、友人の友人から批判されたらしかった。

友人のしあわせを実現する手段が働かないことなら、私は心からそれを応援する。
友人にはしあわせになってほしいからだ。

私は他人の選択を、「どうしてそうしたの?」と深く知りたくなることはあるけれど、評価しようとは思わない。
ただ、その人の考えや想いを知りたいだけ。

自分にとってのしあわせなんて人それぞれなんだから、それを実現する手段だって人それぞれなはずだ。
道徳に反するものでない限り他人の選択を評価する権利なんて誰にも無いのだし、冷たいと思われるかもしれないけれど、その選択が自分に不利益をもたらさないなら、愛を込めて「どうでもいい」と言わせてもらう。

働いていようがいまいが、正規だろうが非正規だろうが、企業だろうが役所だろうが起業しようが、みんな好きに生きたらいい。
その生き方が自分のしあわせにつながっている確信があるなら。

こういうことを言うと、「みんなが好きに生きたら秩序が乱れる!」と反論されることもある。
私のアンサーとしては「あなたのしあわせが秩序を保つことなら、あなたが秩序を守るような生き方をすればいい。でもそれを他人に強要することはできない」だ。
人はみんな自由に生きる権利が付与されているのだから。

自分のしあわせが変化するなら、それに合わせて生き方を変えていきたい。
「働く」は「生きる」の手段でしかない。
「働く」が目的にならないよう、気をつけていきたい。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。