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町山智浩『映画の見方がわかる本』のデタラメを少しだけ批判する+「アメリカン・ニューシネマ」論覚え書き
以前シェイクスピア研究者の北村紗衣がWEBメディアの映画紹介記事で「アメリカン・ニューシネマ」についてずいぶんデタラメなことを書いているなということを批判した記事を書いて、それからいろいろあった後に「アメリカン・ニューシネマ」という和製英語がどのように形成され運用されてきたのかを調べることにしたのだが、そのための資料をいろいろ集める中で町山智浩の『映画の見方がわかる本』を再読した。再読して、少なくとも「アメリカン・ニューシネマ」に関する記述がずいぶんいい加減であることに閉口したのだった。
この本は初版が2002年なので今からもう22年も前の本になる。俺がこの本を読んだのはまだ中学生か高校生の頃なので、映画の基礎教養はこの本から得たことになるが、22年も経てば新しくわかったこともたくさんある。この本は映画秘宝関連の本としてはかなり売れたらしく(最近になって文庫化もされた)、著者の町山智浩はその後映画に加えてアメリカ事情通としてメディアに露出するようになるなど活躍の場を広げたので、たぶん俺と同じぐらいの世代でこの本を映画の基礎教養にしている人は結構いると思う。そしてこの本のデタラメをそのまま呑み込んでしまっている人も少なからずいるのではないかと思う。
もしかするとその中には北村紗衣もいるかもしれないし、北村紗衣のいい加減さだけ批判して町山智浩のいい加減さを批判しないのはフェアではないから、本全体の検証というわけではないが、サッと読んで明らかにおかしかった部分だけ、この記事ではいくつか指摘してみようと思う。22年も前の本なら間違いもいっぱいあって当然なので別段責めるつもりはなく、ただ、22年も前の本の(間違った)記述をそのままなんも批判しないでいるのは不健全だと思うんである。
【その前に…】町山智浩の「アメリカン・ニューシネマ」論の位置づけ
いろいろ調べたところ、「アメリカン・ニューシネマ」の概念史は今のところ4期に分けられるようだった。第1期は1968年。TIME誌1967年12月8日号を下敷きにして書かれた『キネマ旬報』1968年 春の特別号』の特集「アメリカン・ニュー・シネマとは何か?」が、この言葉の用いられたおそらく最初のケースだと思われる。その定義は「新しいクールでショッキングな一群のアメリカ映画」であり、それに該当する作品として『俺たちに明日はない』『冷血』『殺しの分け前 ポイント・ブランク』『ある戦慄』『地獄の天使』の5本が挙げられている。詳細は下の記事を参照下さい。
しかしながら以降、「アメリカン・ニュー・シネマ」の言葉が積極的にキネ旬やスクリーンといった映画雑誌で用いられた形跡はなく、稀に『俺たちに明日はない』の評論などで「このような映画はアメリカン・ニュー・シネマなどと言うらしいが」といった形で言及される程度。「アメリカン・ニューシネマ」の始まりは1967年の『俺たちに明日はない」とされるが、1968年~1969年の時点で概念として定着しているとは言いがたく、具体例として挙げられている作品群も後の「アメリカン・ニューシネマ」とは著しく異なっているため、この時期を第1期とした。
第2期は1970年1月に日本で『イージー・ライダー』が封切られてから1972年初頭ぐらいまで。実質的に「アメリカン・ニューシネマ」の言葉が根付いたのはこの時期で、主にキネ旬において幾度かニューシネマ特集が組まれるなど、『イージー・ライダー』を中心に「アメリカン・ニューシネマ」が再定義され定着した。
しかし1972年を過ぎると「アメリカン・ニューシネマ」の語は急速に勢いを失っていく。1971年の『バニシング・ポイント』あたりを「アメリカン・ニューシネマ」の終焉と記述する論者がいるのはおそらくそのためで、要はキネ旬なんかの映画ジャーナリズムが「アメリカン・ニューシネマ」という言葉をあまり使わなくなった、もっと悪く言えば映画ジャーナリズム発祥と考えられるこの言葉の映画ジャーナリズムにおける消費期限=商品価値が切れた、ということなのではないかと思う。
なお「アメリカン・ニューシネマ」の語が誕生し終焉を迎えるまでの1968年~1976年、キネ旬の編集長だったのは先頃亡くなった映画評論家の白井佳夫。この頃のキネ旬には時流に乗って「映画紅衛兵運動」という企画・コーナーがあり、その内容は映画館で何かしら不快な思いをした読者が実名で投書した告発記事を載せ、当該映画館に反論もしくは謝罪を迫るというものだった(反応がない場合は白井佳夫が直々に映画館に電話し回答を求めたという)。そうした当時のキネ旬の左翼的空気は、「アメリカン・ニューシネマ」という新語にも少なからず反映されているのではないか、というのは頭の片隅に置いておいてもいいのではないかと思う。
第3期は1980年代。この頃に何が起こったかといえば、「アメリカン・ニューシネマ」概念を核として1970年代のアメリカ映画を概観する、カタログ本のような本がさまざま出版された。現在の「アメリカン・ニューシネマ」概念の基となっているのはおおむねこの時期の「アメリカン・ニューシネマ」観であると考えることもできるかもしれない。というのも『イージー・ライダー』を軸としていた第2期には「アメリカン・ニューシネマ」にはあまり含められなかった『卒業』や『泳ぐひと』といった現在の「アメリカン・ニューシネマ」の代表的作品が、この時期には「アメリカン・ニューシネマ」として括られたためだ。
1990年代に入ると「アメリカン・ニューシネマ」は雑誌や書籍で積極的に取り上げられることがなくなる。第3期の時点で既にノスタルジーの対象となりつつあった過去の概念である「アメリカン・ニューシネマ」は、おそらくレンタルビデオによる広範な時代や地域の映画へのアクセスが確立され、また英語圏の映画に『レザボア・ドッグス』のクエンティン・タランティーノや『トレインスポッティング』のダニー・ボイルなど、新しい感覚や表現を持った監督たちが参入し始めた1990年代において、身も蓋もなく言えば売れる概念ではなくなっていたのではないだろうか。この時期に「アメリカン・ニューシネマ」の神話に終止符を打った遠山純生編著の『「アメリカン・ニューシネマ」の神話』がひっそりと発売される。
そして第4期が町山智浩が『映画の見方のわかる本』の基となった映画秘宝の連載「イエスタデイ・ワンスモア」において「アメリカン・ニューシネマ」を取り上げた2002年~現在。2002年にはスタジオ・ボイスでも「アメリカン・ニューシネマ」特集が組まれており、一時的な現象だとしても再び雑誌や書籍の世界で「アメリカン・ニューシネマ」に脚光が当たったことは特筆に値する。なぜそうなったかは今後の研究課題だが、そのようなわけで、「アメリカン・ニューシネマ」言説史において町山智浩が果たした役割は大きいと考えられる。
『映画の見方がわかる本』はどうデタラメか
『映画の見方がわかる本』を再読したのはあくまでも「アメリカン・ニューシネマ」の変遷を見るためだったので、今回指摘するデタラメ箇所は「アメリカン・ニューシネマ」について書かれた章に限定する。他の章にどれくらいデタラメがあるのか、あるいは無いのかはわからないので、そのへんは聞かないでくれたまえ。ちなみに引用はすべて文庫版ではなくソフトカバー版からです(だから文庫版ではもしかしたら修正されてるところもあるかも)
デタラメ① 当時のハリウッド映画事情
当時のハリウッドには若者を満足させる映画は一つもなかった。『サウンド・オブ・ミュージック』(六四年)のような家族揃って楽しめるミュージカル、『クレオパトラ』(六三年)のような歴史ものの超大作、それにジョン・ウェインの西部劇。当時のハリウッド映画はどれも時代や社会と関係のない、絵空事だった。そこには、セックスもドラッグも黒人も存在しない。
これは1967年に『俺たちに明日はない』が誕生した背景について書かれた文章なので、具体的には示されていないが当時というのは概ね1960年~1966年ごろを指すと考えられる。
さて、「当時のハリウッドには若者を満足させる映画は一つもなかった」という完全に主観的な断言から始まるこの一文は様々な点でデタラメである。当時のハリウッドにはミュージカル、歴史もの超大作、ジョン・ウェインの西部劇しかなかったということがデタラメであることは言うまでもなく、たとえばオードリー・ヘプバーンの『シャレード』は1963年、『マイ・フェア・レディ』は1964年であり、たぶん誰もが名前だけは聞いたことがある『ピンク・パンサー』シリーズの1作目『ピンクの豹』が1963年、戦争映画の金字塔の一本『史上最大の作戦』が1962年、一方社会派の映画では名作『アラバマ物語』が1962年と、この時代のハリウッド映画もそれなりに多様性に富んでいたし、しかも『アラバマ物語』の例に顕著なように「どれも時代や社会と関係のない、絵空事だった」わけでは決してない。
また「ジョン・ウェインの西部劇」が否定的な例として出されているが、どの時代をジョン・ウェインの黄金期とするかは論者によるとしても、代表作と捉える人もいる『捜索者』は1956年だし、『リオ・ブラボー』は1959年、1960年代の作品では1962年の『リバティ・バランスを射った男』が傑作と名高いが興行成績の面では振るわず、1960年代は一般的にはジョン・ウェインのスターバリューが下がっていった時代と考えられるわけだから、映画館に「ジョン・ウェインの西部劇」ばかりというのは実態から解離しているだろう(『史上最大の作戦』は例外的にヒットしているが、これはノルマンディー作戦を題材にした戦争群像劇なので、ジョン・ウェイン映画とは別に考えるのが適切に思われる)
「そこには、セックスもドラッグも黒人も存在しない」この一文は大いに問題だ。セックスとドラッグはプロダクション・コード(ハリウッド映画の表現自主規制)の適用されない独立プロダクションの映画ならば1963年の『痴情』などが存在したとはいえ、依然プロダクション・コードに縛られた「ハリウッド映画」ならたしかに暗喩レベルでしか存在しなかったかもしれない。けれども「黒人も存在しない」は明確に否定されるべきデタラメである。なぜならハリウッド映画史に敢然と輝く黒人スターのレジェンド、シドニー・ポワチエの存在を抹消してしまっているからだ。
黒人差別をテーマにした巨匠ジョセフ・L・マンキウィッツによる1950年の秀作サスペンス『復讐鬼』が映画デビュー作のシドニー・ポワチエは1955年の『暴力教室』、1958年の『手錠のまゝの脱獄』、1963年の『野のユリ』とキャリアを伸ばし、『手錠のまゝの脱獄』でアカデミー主演男優賞ノミネート、『野のユリ』ではアカデミー主演男優賞を受賞、『俺たちに明日はない』と同年1967年には『夜の大捜査線』『いつも心に太陽を』『招かれざる客』といずれもハリウッド映画史に刻まれる傑作秀作3本に出演しており、「そこには、セックスもドラッグも黒人も存在しない」どころか、むしろこの時代、長い公民権運動も実ってシドニー・ポワチエは名実ともにハリウッド・トップスターの一人だったのである。
町山智浩がどのような意図で「そこには、セックスもドラッグも黒人も存在しない」と書いたかは定かではないが、結果としてこの一文が白人たちの「アメリカン・ニューシネマ」を特権化し、シドニー・ポワチエの存在を貶めていることは否めない。しかしそれは、現実のハリウッド映画史とは異なる、きわめて主観的な記述なのである(なお「アメリカン・ニューシネマ」以前の黒人ハリウッドスターとしては傑作ノワール『拳銃の報酬』に出演した歌手のハリー・ベラフォンテも忘れてはいけないと思う)
デタラメ② アメリカ人が外国映画を観ること
アメリカ以外の国ではすでに映画の革命が起こっていた。(中略)それら外国映画は主にアート系映画館で上映されたが、そこに集まった若者は映画を「勉強」しにきたわけじゃない。アメリカ映画が見せてくれない刺激的なもの、いけないものが目当てだった。当時、アメリカ以外の映画を観ることは「不良行為」だったのである。
「「勉強」しにきたわけじゃない」はたしかにそうかもしれないけど「アメリカ以外の映画を観ることは「不良行為」だった」ってそんなわけねぇだろバカかよ。当時のアメリカで流行ってた外国映画といったらイギリスの『007』シリーズが筆頭だがこれは年間興行収入ランキングでも上位に入っているし若者が主要客とは推測できるが若者だけが観にきていたわけでもないだろう。『007』を観たら不良だったなんて話は聞いたことない。しかもこの前段でアメリカ以外の国の映画の代表的な作品として町山智浩が挙げているのは『8 1/2』とか『用心棒』なのである! 『用心棒』を観たら不良!
デタラメ③ ハリウッド映画の中の裸
ボニーの全身が映る。裸である。これはヘイズ・コード撤廃で初めて可能になった表現だ。
これは『俺たちに明日はない』の冒頭シーンを解説している箇所。「ハリウッド映画の中では」と注釈を付ければ裸が「ヘイズ・コード撤廃で初めて可能になった表現」であることはその通りだが(ヘイズ・コードというのはプロダクション・コードの俗称)、前述の通りプロダクション・コード対象外の独立プロの映画なら裸は出せたので、ラス・メイヤーなどのソフトコア・ポルノ映画や、AIPが配給した1964年のシドニー・ルメット監督作『質屋』では既に女性ヌードが登場している。ちなみに実際の『俺たち明日はない』の当該シーンは絶妙な編集で乳首が画面に映らないように配慮されてるので、それだったらプロダクションコード廃止以前でも出来たと思う(『質屋』ではちゃんと乳首も見せている)
デタラメ④ ニュー・アメリカン・シネマとアメリカン・ニューシネマの混同(あと誤訳っていうか現物を見ないでの捏造行為)
十二月八日、『タイム』誌は『俺たちに明日はない』を表紙にして「ニュー・アメリカン・シネマ……暴力とセックスの芸術」と題し、ハリウッドが変わり始めたと報じた。
ほんっとにデタラメ書いてるな…該当する号の『タイム』誌の表紙に書かれているのは正確には「THE NEW CINEMA.VIOLENCE…SEX…ART.」で「ニュー・アメリカン・シネマ」とも「暴力とセックスの芸術」と書いてない。「新しい映画。暴力…セックス…芸術」が正確な訳である。暴力とセックス「の」芸術ではない点に注目。そして「ニュー・アメリカン・シネマ」はジョナス・メカスやシャーリー・クラークといった1960年前後のニューヨークのインディペンデント映画作家たちの作品もしくは映画運動を指す言葉である。映画評論家を名乗っておいて「ニュー・アメリカン・シネマ」と「アメリカン・ニューシネマ」を混同するとか信じられない。
※詳細は下の記事をご覧下さい。
デタラメ⑤ 映画評論家ポーリン・ケイルの肩書き捏造
ケイルは「ニューシネマの守護者」として絶大なる崇拝を受けるようになる。
既に確認したように「アメリカン・ニューシネマ」は和製英語なので英語圏では用いられておらず、したがってポーリン・ケイルが「「ニューシネマの守護者」として絶大なる崇拝を受けるようになる」わけがない。ポーリン・ケイルが当時の若者に人気があったとしても、この肩書きはシンプルにそうであってほしいという願望の入った捏造。
デタラメ?⑥ 民族性の抹消
六〇年代までのハリウッド映画を観ていると、アメリカにはユダヤや東欧、イタリア系などの「エスニック」は存在しないかのようだ。
これに関しては文末が「かのようだ」なので町山さんにはそう見えたんですねということでデタラメとまでは言えないが、先に触れたようにシドニー・ポワチエはむしろ1960年前後に大きく飛躍したし、1950年代のハリウッド・ノワールとか見てると中国人とか観てるとよく出てくるのでエスニックは存在しないかのようだっておめーろくに映画観てねぇだろって思う。ちなみに1950年のアンソニー・マン監督作『流血の谷』は主人公が白人たちに迫害されるネイティブ・アメリカンの人で、1952年の『革命児サパタ』はマーロン・ブランドがメキシコの革命家エミリアーノ・サパタを演じたハリウッド映画です。
デタラメ⑦ ニューシネマ革命とかいう歴史修正
六九年七月、『イージー・ライダー』はコロムビアから配給され、アメリカだけで製作費の四十倍にあたる一千九百万ドルを稼ぎ出した。
もはや、ハリウッドは降参するしかなかった。どんなに金をかけた大作よりも、若造の素人映画に客を取られてしまうのだから。
この時代の映画の全米興行成績はインターネットで無料で見られるものを探した限りではあまり信頼できそうなものがなかったが、仮に下のサイトをデータを信じるとすれば、この年の『イージー・ライダー』は年間興行収入ランキング4位。
『明日に向かって撃て!』がトップに君臨するこの年は「アメリカン・ニューシネマ」がアメリカ映画界を席巻した年とも言えるが、同時にディズニーの『ラブ・バッグ』(2005年にリンジー・ローハン主演でリメイクされた『ハービー/機械じかけのキューピッド』のオリジナル)が興収2位、興収5位はハリウッド・ミュージカルの『ハロー・ドーリー!』、前年1968年の全米ナンバーワンヒット作(と思われるが信頼できるデータがない)であった『ファニー・ガール』でブレイクしたバーブラ・ストライサイドの主演作で、「どんなに金をかけた大作よりも、若造の素人映画に客を取られてしまう」わけでは決してなかった。実際、翌1970年には『大空港』や『パットン大戦車軍団』といったハリウッド大作が大ヒットを記録し、興収トップは『ある愛の詩』であった。
デタラメ⑧ 勝手に人の経歴を捏造するな
かくして、経営難で傾き、ガタガタになった映画会社の壊れた門に、門外漢がゾロゾロ入ってきた。
これは『イージー・ライダー』のヒットで新人監督たちがハリウッドメジャーに押し寄せたという文脈での一文で、この後には監督名がずらずら並ぶが、その中にあるロバート・アルトマンは『イージー・ライダー』前の1967年にワーナーで『宇宙大征服』を撮って映画監督デビューしてるし、フランシス・F・コッポラも『イージー・ライダー』と同時期にやはりワーナーで『雨のなかの女』を撮っているので、別に『イージー・ライダー』のヒットでアルトマンやコッポラがメジャーな映画監督になったわけじゃない。『イージー・ライダー』がどれだけ好きなのか知らないが、『イージー・ライダー』を持ち上げるためにその功績を明らかに過大評価し、あまつさえ他の映画監督の経歴を捏造したらいかんだろうが…。
ちなみに、「アメリカン・ニューシネマ」の語が生まれたとされる『キネマ旬報』1968年 春の特別号』の特集「アメリカン・ニュー・シネマとは何か?」でも白井佳夫が指摘しているように、外国からの監督の招き入れやテレビ監督の参入は「アメリカン・ニューシネマ」以前からハリウッドでは一般的にあった現象なので、別に『イージー・ライダー』とか「アメリカン・ニューシネマ」のおかげで門外漢監督がハリウッドで映画を撮れるようになったわけではない。
総括:「アメリカン・ニューシネマ」の神話化がヒドすぎる
先に書いたことの繰り返しになるが、以上のデタラメは『映画の見方がわかる本』に収められている「アメリカン・ニューシネマ」の章(『俺たちに明日はない』と『卒業』と『イージー・ライダー』の章)たったひとつの中に見つかったものである。はっきり言うが今回再読して「こんなにテキトーだったのか…」と落胆した。たった一章でこんなにテキトーなら本全体でどれだけデタラメがあるのだろうと思う。それを探す気力は今の俺にはない。
さて、この「アメリカン・ニューシネマ」の章のデタラメを貫くのは「アメリカン・ニューシネマ」を神話化しようとする、意識的なものかそれとも無意識的なものかはわからないが、ともかくそのような無駄な情熱であるように俺には思える。そのためにはシドニー・ポワチエの存在を抹消しなければならなったし、ロバート・アルトマンの経歴を捏造しなければならなかったし、バーブラ・ストライサンドという大スターがその時代に誕生した事実にガン無視を決め込む必要があった。すべては「アメリカン・ニューシネマ」を神話化するためであり、同時にそれは、反抗的な若い白人男性の特権化でもあるだろう。
これは町山智浩ひとりの問題ではなく日本の映画評論界隈に長年横たわっている問題でもあるかもしれない。というのも、たとえば1971年のヒット作『黒いジャガー』で「新しい黒人映画」を作った写真家のゴードン・パークスは、それ以前の1969年に『知恵の木』というアーティスティックな黒人映画を監督しているのだが、これらは二作とも日本で「アメリカン・ニューシネマ」とされていないし(前者は存在すら知られてないと思う)、バーバラ・ローデンが監督・主演した1970年作『WANDA ワンダ』は前年の『雨のなかの女』と共通点の多い女性のロードムービーだが、この二作も撮影手法や題材の面で「新しい」映画であったにも関わらず、「アメリカン・ニューシネマ」に分類している書籍は一部に留まる。
つまり、黒人や女性は評論家たちの語る「アメリカン・ニューシネマ」という概念から排除され、その上で若い白人男性主演の「アメリカン・ニューシネマ」があたかも1970年前後のアメリカ業界を席巻した「革命」があったかのように語られることで(実際は『大空港』などのパニック大作やバーブラ・ストライサイドのミュージカル、ディズニー実写映画の方がヒットしていたことは先に見た通り)、黒人映画人や女性映画人の存在と功績を周縁化…ならまだいいが、町山智浩の場合のように抹消してしまうことさえあったのだ。仮借なく言えば、「アメリカン・ニューシネマ」概念とは、日本人の(主として左翼思想に共鳴する男性の)映画評論家たちによるアメリカの若く反抗的な白人男性に対する幻想であり、無自覚的な差別心の発露だったとさえ言えるのである。
今後、この観点から「アメリカン・ニューシネマ」言説史を検証していきたいと思います。おわり。
※完璧に余談となるが、淀川長治や水野晴郎といった非アカデミックな映画評論家と見られている人たちにはこうした「アメリカン・ニューシネマ」の神話化傾向は見られないので、俺はその人たちの方が信頼できると思ってる。