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不毛なネット戦争に終止符を打つために俺が映画『バービー』のストーリーをネタバレ込みで解説してやるnote

公開前から日本のSNS(というよりツイッター)だけ戦争状態になっていた映画『バービー』は公開後にもその内容を巡って戦火が拡大しておりもはや収拾が付かない。どうせネットで戦争ごっこをやってるやつは全員バカだから二週間もすれば忘れるだろうがバカにバカさを自覚させないまま鎮火を許すとバカが学ばないのでこれはよくない。ということで正義のバカの俺が今こうやってありがたくもnoteの筆を執った次第である。


みんな『バービー』のストーリーがわかってない

それにしてもどうして戦争になっているのだろうか。『バービー』を巡る第一次大戦通称バーベンハイマーの戦いに関しては面倒くさいから全部省略。検索すれば出てくるからそれ適当に読んでくれ。ここで取り上げたいのは現今の第二次バービー戦争の方である。なぜ戦争になっているのか。

俺はシンプルなものが好きなので一言でこうまとめたい。「みんな『バービー』という映画の内容がよくわかっていないから」。衝撃的な見解であるまいか。だってインターネットではみんな俺はこう思う俺はこう思うと雪合戦みたいにザ★俺の世界観を投げまくっているのに、その誰もが内容を理解していないなんてことがあるのだろうか? 普通、内容を理解しているから怒ったり褒めたりするんじゃないの?

ところがそうとは限らないのである。占いを例に取ろう。占い師というのはフルスイングで外さないようにたとえ外れてもファールぐらいは飛ばせるような曖昧な表現を用いる。「あなたにはかつてとても愛した人がいて、それを失った…」と言えば、大抵の人には当てはまるだろうし、いえそんなことないですよという人もめちゃくちゃ可愛がってたペットを亡くした経験とかはあるかもしれない。占い師はそれを聞いて「あぁ、人の形に見えましたがイグアナだったんですね」とか軌道修正するわけである。

さてそのような曖昧な表現、ここでは続けて「あなたにはかつてとても愛した人がいて、それを失った…」を使うことにするが、これを聞いた占い客はそこに自分の記憶から引っ張り出してきた誰かを投影する。俺は占い師が嫌な顔をするところが見たいので投影せず一から十までウソの話をして最後にこの話は全部ウソですやっぱお前ペテンだなバーカと言うが、これは俺が病気なだけで健全なるみなさんは決してそんな嫌がらせ行為はしないであろう。

曖昧な表現に対してはそれを聞いた個人個人がまったく別の像を思い浮かべることになる。「あなたにはかつてとても愛した人がいて、それを失った…」に対して、愛していた子供を連続猟奇殺人事件などで失った経験を頭に浮かべる人もいるだろう。その人はきっと悲しみや無力感を感じるはずである。他方、「あなたにはかつてとても愛した人がいて、それを失った…」に対して、昔すごく好きで付き合っていた人がいたが、結婚したらそいつがむちゃくちゃ豹変して顔も見たくないから離婚した、という経験を思い浮かべる人もいるだろう。その人はきっと怒りやなぜあんなやつに惚れたのかという悔恨を感じるはずである。つまり、占い師が「あなたにはかつてとても愛した人がいて、それを失った…」と曖昧でかつ感情を刺激する言葉(「とても愛した」「失った」がそれに当たる)を言えば、占い客は十人十色の反応を見せるわけである。

『バービー』はとても曖昧な映画である

『バービー』を巡るインターネット戦争で起こっていることというのは要するにこれなのだ。『バービー』を思想の強い映画と言う人もいるがそれは(少なくも俺の見立てでは)違う。むしろ逆である。『バービー』の中には少なからず観客の感情を刺激する様々な論点が含まれているが、この映画はそのどれにも明確な答えを出そうとしない。一例を挙げれば企業役員の男女比の問題。実際は違うらしいが劇中のマテル社は社長以下役員が全員男であり、男が女の理想像の投影されたバービー人形製造の意思決定権を握っていていいのか? という問題提起がある。ところがこの問題は物語の最後に至っても結局解決しない。それどころか悪役的に描かれていたはずの社長(ウィル・フェレル)も実は理想に燃える優しい人だったみたいなよくわからないところに着地して、せっかく提起された男女格差の問題ははぐらかされてしまうのである。

こうした社会的な問題提起とそのギャグ化によるはぐらかしは映画の全編に渡って見られるし、人形とその持ち主の関係はどういうものか、どうあるべきかという問いかけも答えは出されない。『バービー』という映画のそうした構造については昨日ブログに書いちゃったのでここでは繰り返さないが、ともかくそういう非常に曖昧で余白の多い映画だからこそ、みんな持論を投げつけまくって戦争になるわけである。

なので戦争を止めるには余白を埋めることが必要である。困ったことにこの映画、なんでもかんでもギャグにしすぎていて本筋まで余白になってしまっている。いや正確には、しっかりと画面を見てさえいればどんな物語かわかるようになってはいる。ただし大抵の人はしっかり見ないし、ギャグの嵐によって本筋まで大抵の人にわからなくなっているということは、映画の作りとしてはハッキリ下手だということである。少なくとも上手くはない。

それを確認した上で、映画『バービー』のストーリーを改めて読み解いていきたいと思う。

なぜ『2001年宇宙の旅』から始まるのか?①

映画の冒頭は『2001年宇宙の旅』のパロディである。『2001年宇宙の旅』のオープニングではそれまで武器や火を使えなかった、つまりまだ動物に過ぎなかった類人猿の前に知性をもたらす宇宙からの飛来物モノリスが現れ、類人猿たちに知性を与える。すると、類人猿は他の類人猿を出し抜くために武器を使用することを覚え、これが人類の起源であると同時に戦争の起源でもある、ということがシュトラウスのクラシック曲「ツァラトゥストラかく語りき」をBGMとして壮大かつ皮肉に描かれる。

これをパロディにした『バービー』のオープニングでは小さな女の子たちが無意識的な母親修行として赤ちゃん人形を使いおままごとで遊んでいる。そこにモノリスの代わりに巨大なバービー人形が現れ、衝撃を受けた女の子たちは次々に赤ちゃん人形をぶん投げおままごとセットを破壊する。「バービーは女の子たちに母親以外にもなれることを教えた…と、バービーたちは信じていた」と語るナレーターは物語の外部に位置し、途中ふたりの主人公の一人であるバービーを演じたマーゴット・ロビーが「人間は見た目じゃない!」みたいなことを言うとすかさず「そんなことをマーゴット・ロビーに言われてもね」とナレーターがツッコむ場面があったりする。ははは。おもしろいね。

さて、このオープニングをどう解釈すべきか。おそらく注意すべきはナレーターによる「と、バービーは信じていた」の台詞である。つまり現実にバービーが女の子たちを母親から解放したかどうかは定かではなく、あくまでもそれはバービーたちの信じる神話である。『バービー』の世界にはバービーたちの住むバービーランドと人間たちの住むリアルランドがあり、このバービーランドはいわば理想世界、バービーたちは自分たちが持ち主の人間の理想像でありリアルランドに住むバービーの持ち主人間たちはバービーを真似て生きているのだと考えている。

その後主人公のバービーは歳を取らないはずの自分が急激に老いたことにビビり散らし、人間とバービーの「裂け目」を修復するために町外れの奇矯バービーの知恵を借りて相方(オマケ)のケンと共にリアルランドへと赴く。老いないはずの理想が老い、ハッピーに満ちあふれたバービータウンで唯一死というネガティブなものを意識するようになったのは、バービーの持ち主がなんらかのトラブルに巻き込まれているからに違いない。その持ち主は反抗期真っ盛りでいつもふくれっ面のティーンエイジャー女子…ではなくマテル社の秘書室で働くその母親だった。

バービー=リアルランドで働く母親

ここで提示されるバービー=母親の構図はこの物語の核心である。その後リアルランドで自分の可能性を知ったケンがバービーランドに戻って男中心のケングダムならぬケンダムを築くという展開があるが、はっきり言ってこの展開に賑やかし以外の意味はないと俺は思う。そう考えられるのはこのケンの蜂起パートがその後のバービーの自己決定パートとほとんど何の関係もないぐらい乖離してしまっているから。ケンの蜂起が終わるとそこにバービーの開発者ルース・ハンドラーが脈絡なく現れ、ケンたちもケンの役割に囚われず自由に生きることにしたのだからバービーも…ということでルース・ハンドラーがバービーの手を握るかなんかすると、そこにおそらく親から観た女の子の映像が走馬灯のようにバービーの頭に流れ込む(この女の子が誰なんかはよくわからなかった)

これは何を意味する映像なのだろう。ケンの蜂起→母親の言葉でケンの奴隷となった洗脳バービーたちを脱洗脳しケン鎮圧→バービーの自己決定、ここまでは一繋がりの展開だが、直後に訪れるルース・ハンドラーとバービーの邂逅および女児の記憶の流入は前触れなく唐突である。しかし、その意味するところはバービーと母親の一体性に着目すれば理解することができる。

整理してみよう。
ルース・ハンドラーは、バービーの「生みの親」である。
バービーは、マテル社秘書室勤務の一児の母が「自己投影する像」である。
従って、ルース・ハンドラーはマテル秘書の母の「想像的な母」である。

バービーが老化現象に悩まされていたのは老化と死を意識する中年に達し娘との関係も上手くいっていない一児の母の精神的な混乱が反映されていたからだった。バービーがリアルランドで出会った彼女の娘は「女の子たるものこうあるべし」と押しつけるバービーをフェミニズムの敵として捉え、一方で母親は幼い頃によく遊んでいたバービーと遭遇して憑きものが取れたように生き生きとする。それを見て娘もバービーおよび母親に対する態度を軟化させるように見える描写は少しだけあるが、彼女についてはそれ以上掘り下げられることなく、そのまま物語はケンの蜂起へと進む。

母親になどならなければよかった!

もしこの映画からファンタジックな要素を取り除くとすれば、それはこのような物語になるだろう。中年の危機に思い悩む母親がいる。彼女は昔よく遊んだバービーを押し入れかどこかから見つけてきて、あの頃バービーを通して見た様々な夢や希望(女の自立など)を思い出す。そして同時に、様々な選択の中から自分は仕事もする母親になることを選んだことを、そして娘と過ごしたかけがえのない時間も思い出して、今の自分の在り方を前向きに肯定する。

それをもう一度ファンタジックなレベルに戻して、ラストのシークエンスを解釈してみよう。ルース・ハンドラーはバービーの「母」である。そしてバービーはハンドラー姓を名乗ることでルース・ハンドラーの「娘」であることを自覚する。「母の娘」であることを選んだバービーには女児と過ごした記憶が流入してくる。「母の娘」である自分を肯定することで、彼女は「娘の母」である自分を肯定し、将来的に妊娠をするために(したために、ではないことに注意したい)産婦人科を訪れる。

なぜ妊娠をするためと言えるかといえば、バービー=マテル社秘書の母親だからで、バービーの自己決定と台詞に出てくるので若干意味が通りにくくなっているが、記憶の流入シーンが示すのはバービーと秘書の母親の分離ではなく、逆にバービーと人間、言い換えれば理想と現実の間の「裂け目」を修復して一つにする、ということを意味するからだ。バービーがリアルランドに旅立った理由は「裂け目の修復」だったことを思いだそう。バービーが老いもすれば口臭も出てそしていつか死んでしまう「人間になること」を選ぶとは、バービーと=の存在であるマテル秘書の母親が、今の自分の生を肯定するということなのである。そしてバービーとマテル秘書の母親の合一は出産という行為によって完遂するのである。

なぜ『2001年宇宙の旅』から始まるのか?②

思いがけず迂回してしまったが、ここまで来れば冒頭の『2001年宇宙の旅』パロディが何を言わんとしていたか明瞭になるのではないかと思う。赤ん坊人形を女児たちがキレまくって破壊するのは、単にパロディというだけでなく、娘との関係が上手くいっていないマテル秘書の母親の苛立ちが反映されているからだ。

こんな風になる予定じゃなかった。スーパードクターにもなれたかもしれない。宇宙飛行士にもなれたかもしれない。あるいは大統領にだって。けれども実際の自分は幼い頃にバービーを通して見た理想の姿とは程遠い。娘さえいなければ! 母親にさえなっていなければ! こんな道を選んでいなければ! でも、間違ってはいなかった。確かに現実は理想とは程遠いが、それでも娘と過ごした時間はかけがえのないものだ。私の人生は間違ってなどいなかった!

これが、『バービー』という映画で描かれる物語なのである。

そのほかはだいたいぜんぶ枝葉末節

俺の見たところインターネットでこの映画に言及している人のほとんどが上記のような「本当の」ストーリーは全然語ってない。語るのはケンのあれがどうとかフェミニズムがどうとかなんとかがそうとかであるが、それは全部本筋とは関係ない観客サービスの部分で、だから相互に矛盾しているようなところもあるし、問題提起したかと思えばすぐにネタ化されたりするのである。この映画の中でネタ化されない唯一のものは「母」を巡る描写やシーンであり、であればそれが映画の本筋であると考えるのは当然中の当然であろうと思われるが、良くも悪くもピカピカと煌びやかなネタの数々が面白いのでシリアスな本筋が見失われてしまっているわけである。繰り返すがこれは映画として失敗であると俺は思う。

いちいち反論するのもバカバカしいがこの映画が男性のうんたらかんたらについてのお話ではないことは極度に戯画化された姿を見れば根拠としては充分だろう。マテル社長のウィル・フェレルは言うまでもなく大物コメディアンである。またフェミニズムについての(少なくとも真剣に考える)映画でもないことは、あくまでも「と、バービーは信じていた」とはぐらかしてはいるが、バービー人形が女児を母親業から解放したなどと冒頭シーンで描いていることだけでやはり根拠としては充分だろう。

西洋社会において女性を母親業から解放した思想的な柱はフェミニスト第一世代の旗手であり『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリーの母親でもあったメアリ・ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』、社会の柱としては産業革命による工場労働の導入であり、とにかく相当に過酷劣悪な状況ではあったが(その過酷さを描いた映画に『未来を花束にして』というものがあり、これはとても面白い映画である)こうしてイギリスを中心に女工という形で女性は家庭から部分的にでも解放されることとなったのである。

各国ごとに状況は大きく異なるとはいえ、そのほかの女性解放動因としては戦争による人手不足(これは『ドリーム』という映画で描かれるはずだったことだが、映画版は原作ノンフィクションを大きく改変しているため、原作ノンフィクションを読むことを勧めます)、公民権運動へのフェミニズムの合流(これは『グロリアス 世界を動かした女たち』というとても良く出来た映画があります)、消費社会の到来による女性の消費主体化があるが、バービーが女児を消費主体に…というのはいささか思い上がりが過ぎるだろう。だって、女児に購買力はないわけだから。

娯楽映画は喧嘩をせずに楽しく(そしてしっかり)見ましょう

というわけで『バービー』はフェミニズムの映画でもなければ男性学の映画でもない。そうではなく、これは中年の危機に差し掛かかった一人の平凡な女の人が、「ありのままの」自分を肯定できるようになるまでのヒューマン・ドラマなのである。わかったでしょ。わかったね。わかったらインターネットの君たちはもう『バービー』で不毛な戦争をしないように!

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