「難聴者と中途失聴者の心理学」第7章・おわりに 読書感想文
第7章 難聴者の情報保障
6章まで僕は「みんな違ってみんなつらい」「みんながみんなを理解しようね」みたいなこと書いてきたんだけど、なんだかんだでやっぱり僕は他人に興味ないんだなと思い知らされた章。つまり興味ない章だった笑。
読書感想文と言いながらずっと自分語りをしてきたけど、普通なら興味を引けないnoteに過去最高のいいねがついている。本を引用したら自分語りも許されるんだなという発見があったし、いいねしてくださる人たちは他人に興味があってえらい。今回で最終章です。よろしくお付き合いください。
中途失聴・難聴者は一致団結できない。
ラノベっぽく言ってみましたが。
この本は共著になっているので、ここまではこれまでにも繰り返し書かれている。この後の、筆者の体験談がリアル。中途失聴・難聴者協会の新年会でのひとコマ。
これ、身に覚えがあります。「私も耳悪いんだよね〜」という会話はよくありますが「言うてワイよりは聞こえてるやろ」と内心思いがちですし、態度にもだしてしまいます。
自分だけが苦しいと思ってしまうんですね。
「内なる差別」
前述したように、むしろ自分より聞こえている人への差別感情を持ってしまいますが、この章では「難聴者の間にも、軽い者から重い者へのさらなる差別がある」という話がされています。
どうだろ?僕は重い人には配慮したくなるけど…。難聴の重さを大きく2つに分けるなら、補聴器などの「音声」を頼りにしているか筆談や手話など「文字」を頼りにしているか。僕は前者なので軽いと言える。重い人がこの読書感想文を読んでいたら「なんだその程度で文句言ってるのか」と思っても不思議はないけど、その逆なら?と読み進めると、
難聴者の情報保障
という、章のタイトルに沿った話になりました。TV字幕など様々な場面に使われる速記の技術やテクノロジーの進化、買い物などで筆談が当たり前になる未来のコンプライアンスや意識の向上について、章の終わりまでこの話が続きます。
興味ないな…。なんでこの章が最後なん?
と思ってハッとしました。ページを戻るとこう書いてあります。
すまんな。とりあえず自分の「コミュ恐」克服するヒント欲しくて読んでたもんでな。ほんで自分語りへの反響がいつもより多いもんで調子のってました。すんまそん!やっぱワイは他人に興味ないんやな!なんなん最終章、しんどいわ笑。
少し話を戻してTV字幕などテクノロジーの進化について語ります。
この章に興味がないと言ったもう1つの理由にもなります。
僕もTV字幕はONにします。お笑いや映画のとき。しかしスポーツなど生放送だと邪魔なので消してます。という視点でみるとテクノロジーはまだまだ進化の余地がある。
でも最近のAIの進化のめざましさを見ていると、シンギュラリティはもう近いんじゃないかと思わされます。
手話だの速記だのテクノロジーだの今までの苦労はなんだったんだという未来がすぐ来るんじゃないかなあ。
補聴器についても、ノイズを拾わずに音声だけ拾える、なんならAIが欲しい情報だけ判断までしてコッソリ耳打ちしてくれるとか、あるいは字幕が浮かび上がる眼鏡とか、そんな未来。もっと言えば「聞こえますか?いま、ちょくせつ脳に語りかけています」も技術としてできちゃうんじゃない?
そういった、あまりにもテクノロジーが進化しすぎて、みんなが「人間とはなにか」を考えなくてはならない時代、あるいはAIの存在によって考えることすら忘れられてしまう未来は、すぐそこにあると思うんだよな〜。
関係ない話しちゃった。
おわりに
筆者たちは口々に言っていました。もっと理解を、と。そのためには我々難聴者が声をあげなければならない、と。引用しようにも本すら足りない、と。
たしかに「コミュ恐を克服する本を探しにいきましょう」と友達に誘われて、池袋の大きな大きなジュンク堂で探したとき、選択肢はこの本1択でした。
でも読みすすめることで克服のヒントどころか、人生観までほんの少し変わるような大きな読書体験となりました。
執筆者の方々や「難聴者の心理学的問題を考える会」のみなさま、ジュンク堂書店さん、本を贈与してくれた かとうさん にはたいへん感謝しております。
noteを読んでくれたみなさまに、一人の難聴者の声としてなにかが聞こえたならば光栄です。ありがとうございました。