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細 部 に 宿 る


今年は花を描こうと思い、寒いうちにたくさんの球根を植えた。

切り花の花を描いていると悲しい気持ちが湧いてくるのは、切り花には枯れてゆく未来しかないからであろう、と思う。ならば育てればいいのではないか?と急に思い立ったのだった。

そのうちいくつかの球根は成長を観察するためにガラスの栽培ポットを買って水栽培にした。(球根の命を縮めてしまうそうなのでいくつかだけ)

その球根がこの暖冬で花開いた昨日、その美しさに見惚れて何時間も写真を撮ったり写生をした。これから咲く花、咲いたばかりの花は瑞々しくて、これからさらに開いていこうとする様はなんて美しいのだろう。

ガラスポットの中で身を捩り、時折りカタン、と音がする。「生きている」花。

動物も、虫も、植物も、丹念に眺めて、その美しさを褒め称えることでより一層輝いていくように思う。だから私は、惜しみなく動植物や虫に賛辞を送る。人目も憚らず「きれいだね」と声をかける。


花を眺めていたらふと、16歳の時に書いた詩を思い出した。

高校生までは門限が厳しく、許可を得て行くライブや映画以外の夜遊びというものをしたことがなかったので夜の膨大な時を私はひたすら本を読んで過ごした。

活字中毒になって、しまいには広辞苑を端から端まで読んだ。世間を全く知らないのに文字ばかりで世の中を掌握したような気持ちになり、頭ばかりが先走って老成していった。

北側の部屋の小さな窓から夜が朝になるのを飽きずに眺め、小難しい本を読破し、小難しく音楽を聴くことだけが遊びだったあの時間は孤独だったけれど、今思えばとても豊かだったと思う。

そんな16歳の時の私は小さな部屋の中で「人間はなぜ生まれたのか」という壮大な問いを書物から探し当てようとしていた。今のように、インターネットなど皆無の時代だから、答えを探したければ自分で片っ端から本を読み漁って調べるしかなかった。

歴史、哲学、宗教…深い意味もわからず手前勝手な解釈に一喜一憂しながら、誰よりも世界を識ったような幻想で、頭を巡る溢れ出ることばをひたすら詩として書き留めた。

自分にとって唯一の宝ものだったその膨大な詩のノートは残念ながら捨てられてしまったけれど、全知全能の神さま(ローマ神話のイメージ)が人間を創った理由についてに想いを馳せて書いた詩があった。

自らの創りし自然物を賛美する者が必要だったからこんなにも複雑な人間をわざわざ創った、そんな内容だった。

「神は細部に宿る」

と言うけれど、自然物が全知全能の神の創作物であると考えると、確かに、その細部の神(美しさ)を見つけ出すことに人間の存在意義はあるのかもしれない。

咲いたばかりの花を前に、思わず深く頷いた。

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