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ビッグ・クエスチョンを問うために
かいさんから紹介いただいた『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン——大いなる探究の現在地』を購入して読み始めた。
ムック本は、あまり購入する機会は少ない。
だけど、あまりにも興味深い問いが寄稿されていて、ついつい手に取った。
ビッグ・クエスチョンとは何か?
ビッグ・クエスチョンというのは、生命とは何か?や真理とは何か?など、あまりにも大きい問いのこと。
本質は、それらがあまりにも「大きい」ということにある。これらの問題はあまりにも大きいので、その前では専門家と素人の区別がほとんど失われてしまい、あらゆる人が平等とならざるをえないかのようだ。
このような問いに対して、時々読書会などを通じて話すことがあるけれど、ほぼ一度たりともこれだという答えに辿り着いて終わったことがない。
仮の答えは見つかるけれど、また別の視点から問われた問いに、またわからなくなっていく。
問いを問うを問う
まだまだ読めていない寄稿の方が多いのだけど、入不二基義さんの「問いを問うを問う」という寄稿は考えたことのなかった問いだ。
問いを問うことはあっても、さらに問う。
そもそも、問いを問うということも分かっていたつもりになっていたけど、深い。
「問いを問う」には、「問いを発する」という一階の意味と、「その発せられた問いの意味自体をさらに問う」という二階の意味の、両方の意味が、一つの表現の上に重ねられている。一階と二階が「問いを問う」という一つの形の内に圧縮されていて、一階の意味と二階の意味の両方を読み取ることができるようになっている。
「問いを問う」は、重なり(階差なし)と隔たり(階差あり)の両方を含んでいる。この隔たり(階差)が、「歌を歌う」「舞を舞う」には、そもそも含まれていない。「問いを問う」とは違って、「歌を歌う」「舞を舞う」は、一階の意味でしか読むことができない。
どのようにその問いに対して辿り挑むのか。
寄稿には、さまざまな専門家の観点から語られていくので、難しいものも正直あると思う。
だけど、その問いへのアプローチがそれぞれ違っていておもしろい。
自分はどんな風に問いに挑んでいるんだろうか。
あまり、そのプロセスに目を向けたことはなかったかもしれない。
ビッグ・クエスチョン。
目次を読むだけでも、好奇心が溢れてくると思うので、ぜひ手に取ってみてほしい。
ほんじゃーにー。