自分の声を聴いて訂正する行為について
昨日は、友人から1人で音声収録をするってどんな感じと問われた。
他者と話すよりも、難しいけれど、おもしろいことだと答えた。
音声収録をはじめて、285回を超えたなかで、恐らく50回ぐらいは1人で話している回がある。
自分の口から出た問いに答える
最初は、何もリアクションが返ってこないし、難しさを感じた。
番組説明だけで、10回以上も撮り直しては消すを繰り返す。
なんだかぎこちなく、一所懸命話しても10分程度で驚いた。
ゲストを招いて話すときは気づいたら1時間たってたみたいなことが起こる。
だねど、1人だとなんとかしなきゃという気持ちが強くて楽しく話せなかった。
開始のボタンをポチッと押すと、そこからは誰も助けてはくれない。
でも、途中からうまく話そうとすることをやめた。
以前は編集もしていたけど今は1人語り回で、ほぼ編集もしない。
本を読んでの自分の解釈や引用から考えたことを時々活用しながら問うていく。
その引用する行為は著者と対話しているような錯覚を時々、味わう。
さらには、自分の声を、問いを聴けるようになってきた。
口走った、理解しているように話したけど、ほんとにそう思っていなければ、嫌ちょっと違うなと訂正する。
それは流暢に滑舌よく話せたほうがリスナーにとっては聴きやすくていいかもしれない。
だけど、そのことに意識するよりも、内から出てくる言葉を受け止めて集中するということが日常あまりしないからおもしろいと思いはじめている。
まとまったから話すのではなく、まとまっていないからこそ話してもいい。
まとまることなんて、ほとんどないのだから、それぐらいの状態でも許容できると動き出すことができると気づいた。
そこで対峙しているのは誰だろう
誰かと話すとき、あまり変えているつもりはないけれど、その人から引き出される自分がいる。
平野啓一郎さんは、分人という言葉を使ってそのことをお話ししている。
だからこそ、他者と対峙するときは話しやすいのかもしれない。
じゃあ、1人語りしているときの自分は誰と対峙しているのだろうか。
よく特定の誰かを思い浮かべて話すことを勧められるけれど、なかなかそこまで器用じゃない。
きっと、そこにいるのはもう1人の自分なのかもしれない。ちょっと前の自分なのか、未来の自分なのか定かではないけれど。
そんな気もしてきている。
書いて、自分との対話もできるけれど、話して対話するのは何か違うのか?そんなことをこれからも問いながら続けていきたい。