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非モテ、透明化された男、弱者男性の根源
前回の投稿の最後に、暴力性において大切な点をまとめました。
別言しますと、非モテはこの逆だからこそ非モテでもあるということです。
つまり、
1.そもそも暴力性を持ち合わせていない
2.仮に暴力性の欠片があったとしても、暴力性を発揮しなければナメられるという局面で日和ってしまい暴力を行使できない
というところに尽きます。
別言すれば暴力性とは、柳生新陰流で言うところの「殺人刀、活人剣」の剣理そのものであり、厳しい修業によって強大な武力を保持し、「ナメた真似したらタダじゃおかない」という雰囲気を漂わせて威圧すること。
そして愚かな輩がちょっかいをかけてきたら、牛刀主義で反撃の「は」の字すら出させずに初動で敵を完膚なきまでに撃滅することです。
これが「治に居て乱を忘れず」であり、大きな争いになる前に問題を芽の内に摘み取ってしまうという「殺人刀、活人剣」になります。
その「殺人刀、活人剣」をミクロレベルの男女関係で活用できた事例がこれです。
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なので、非モテのように女からナメられている存在は、映画「七人の侍」の冒頭部分での百姓のように、何か自分に不都合なことをされても一方的に蹂躙されるのに耐えるのみで、少しもそれに対して対抗しようとはしないというところに根本的な落ち度があります。
逆に言えば、暴力を保持しさえすれば、吉川英治『宮本武蔵』で宮本武蔵が宝蔵院を尋ねた時の描写にあったように、暴力を保持する実体から醸し出される「影法師」が暴力性を漂わせることで、それが自分を不当に見下したり雑に扱うというようなことを防ぐ鎧のようなものになります。
(もっとも、小説では、達人同士の影法師の激突の話であり、今度は逆に影法師を出すことが問題になっているパターンですが)
その実例が、ボクシングを熱心に学んで暴力性を身につけ、一度も実際に暴力性を発揮したことはなかったものの、被差別階級から人間へと昇格できた元チー牛だった人の生々しい事実の報告にあるとおりです。
なので、まずは実体的な強さを身につける=直接的暴力を保持できるように努めることであり、それさえできてしまえば相手がよほどの愚か者でない限り、不当な扱いをされることはなくなります。
それを唄ったのが、唐代の詩人・賈島の「劍客」という五言絶句です。
十年磨一劍(十年一劍を磨くも)
霜刃未曾試(霜刃未だ曾て試さず)
今日把似君(今日把りて君に似(しめ)さば)
誰爲不平事(誰か不平の事を爲さん)
現代語訳しますと、
十年間、剣技をひたすらに磨いて来たが
一度も氷刃の斬れ味を試したことはない
その剣技の斬れ味を見せつけてやれば
誰が自分に不当なことをなしえようか
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実際は「暴力性」を身につけるのに十年もかかりませんので、非モテはつべこべ言わずに格闘技を学びにいくことから始めましょう。
ポリコレ、クソフェミ、そして女の口車に乗るべきではありません。